マンガの神は死んだ〜『テヅカ・イズ・デッド』

「少年ジャンプが売れなくなった。それは、マンガがつまらなくなったらからだ」という意見を目にすることがある。だが、本当にそうだろうか? こんな疑問を抱いたことのある人に、お勧めの本がある。

それが伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』だ。私の周辺でとても評判が良いこの書は、「マンガがつまらなくなった」という言説に反駁するところから始まる。マンガに関する言説を含んではいるが、実態としては「マンガ言説」について論じている。つまり、メタレベルでマンガ言説を論じた言説だ。つまり、マンガ評論というよりも、むしろマンガを例にとった現代思想の書物であるといえる。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

目次を抜粋して引用してみる。

第1章 変化するマンガ、機能しないマンガ言説(なぜマンガ言説は、現状に対応できないのか? 「読み」の多様さとシステム論的分析の必要性 ほか)
第2章 切断線を超えるもの―いがらしみきおぼのぼの』の実践(いがらしみきおの認識
ぼのぼの』と『動物化するポストモダン』 ほか)
第3章 「キャラクター」とは何か(「キャラ」とリアリティ 『NANA』は「キャラ」は弱いけれど、「キャラクター」は立っている ほか)
第4章 マンガのリアリティ(マンガにおける近代的リアリズムの獲得 「コマわり」とは何か ほか)
第5章 テヅカ・イズ・デッド手塚治虫という「円環」の外で(手塚治虫という円環 より開かれたマンガ表現史へ ほか)

確かに日本戦後のマンガ史において、手塚治虫の存在は偉大であった。彼は多くの作品を創り出しただけではなく、「手塚チルドレン」ともいうべきマンガ家を多数生み出した。そうした手塚チルドレンにより創造され、やがて補強された手塚神話の中に閉じ込められていたのが1990年代から現在に至るまでのマンガ言説であると筆者は断じている。

しかし、手塚は死んだ。ニーチェが「神は死んだ」と『ツァラトゥストラはかく語りき』の中でツァラトゥストラに言わせたように、伊藤剛も「手塚は死んだ」と宣言しなければならなかった。これが表題『テヅカ・イズ・デッド』の意味である。

マンガについて論じる側も、手塚治虫という円環の中をぐるぐると回っているだけでは、重大なものを見落とす。もはや絶対的な価値を象徴する「神」はいない。だから、作り手も受け手(読者)も、神=テヅカの不在を認識して、マンガの世界に対峙していかねばならない。そして、そのような新たな試みはもう始まっているのだ。それは浦沢直樹の"PLUTO"であり、あるいは"GUNSLINGER GIRL"であるかもしれない(この本の最終章では、こうした作品が論じられる)。

さて、冒頭の質問への答を書こう。確かに少年ジャンプは売れなくなったかもしれない。だが、それはマンガの衰退を意味しない。サンデー、マガジン、モーニングはどうか。あるいはガンガン、エース、電撃大王といったところで、新しい「マンガ」が息吹いているのを見落としているだけなのだ。

本書が話題になって以降、「マンガがつまらなくなった」などという漠然とした批判を目にする機会が減った気がする。本書の影響力の大きさゆえだろう。