フジコという怪物の物語。その続き。の始まり。
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
( 『善悪の彼岸』ニーチェ「箴言と間奏146」)
昨日の『殺人鬼フジコの衝動』の感想で、僕は「バラエティ番組の中の再現ドラマのよう」と書いた。(不思議な味わい―『殺人鬼フジコの衝動』 - SHARPのアンシャープ日記)
この『私は、フジコ』には、なんとフジコの再現ドラマが登場する。これは劇中劇なのか。実際には、短編はあまりに短くて、フジコの再現ドラマの中身までは詳細には描写されない。
だが、これはまた面白い試みだ。まるで西尾維新の『化物語』シリーズのように、どこまでが作品なのか、どこからがメタなのか、錯綜して分からなくなるような気がする。
殺人鬼フジコは、読者を捉えて離さない。読んでいて気分が悪くなる等というレビューもあるが、分かっていながらもわざわざ読むというのは、実は読まずにはいられないのかもしれない。
そう。これはフジコという怪物の物語。彼女の心の闇を垣間見ることで、読者は人間の奥に潜む醜さを確認しているのかもしれない。
だが、ニーチェが警告している通り、深淵を覗くときには、気を付けないてはいけない。僕らもまた深淵に覗かれているのだ。心の隙間に深淵が入り込んでくるかもしれないのだ。
ということで、この物語は、『インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実』に繋がるのだが、ちょっと間合いを空けておこうと思う。深淵を追い払うために。