ライトノベルではだめなのか?〜『さよなら、 ジンジャー・エンジェル』

新城カズマの新刊『さよなら、 ジンジャー・エンジェル』を読んだ。

さよなら、ジンジャー・エンジェル

さよなら、ジンジャー・エンジェル

奇数章と偶数章で交互に二つの物語が進行する。一見無関係に見える二つの世界は、やがて相対的な関係が明らかになり、両者の接点で事態は一気に急展開を迎える―

まあ、こうして全体の大まかなプロットを書くだけでも村上春樹の影響は否めないが、それだけではない。文中にカフカをはじめとする近現代西洋の作家の固有名詞が頻出するところや、軽やかに見えながらも抽象的で意味ありげな会話など、著者は自身が村上春樹チルドレンであることを隠そうともしない。その点では実に堂々としている。

だが、読後感はずいぶんとさらっとしている。軽い。あっけない。カタルシスが得られない。いや、最終章では意外な事実が判明するのだが、あまりにも予定調和的で、まるで連立方程式を解くようだった。「文学」がそれでいいのか。理不尽なこと、不条理なこと、不可解なことについて探求するのが文学だという立場からすると、この小説は人間や世界の探求について、あまりに軽すぎ、そして浅すぎる。

著者はもともとライトノベル作家だ。だが、その肩書きに”甘んじることなく”、純文学に進出してきた。より正確には、むしろ大衆文学と呼ぶべきかもしれない。しかし、なぜライトノベルから大衆文学へ進出するのかその動機がわからない。ライトノベルが大衆文学よりも劣るなどということはないはずなのに。むしろ出版社のマーケティングなのかもしれない。一冊500円の文庫本よりも一冊1,400円の単行本の方が利益率が高い、みたいな。しかし、そうだとしても、それに乗ってしまう著者の側にも、ライトノベルを低く見る意識があったのではないだろうか。

最近では、桜庭一樹が同じような経歴を辿っている。彼女が直木賞を受賞したのは『私の男』だったが、ライトノベルの『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』でも十分高い文学性を持っていた。ライトノベル作家であることはまったく恥ずべきことではないし、劣っているということもない。ただ、頭の固い「文壇の老人」がそういうカテゴリの作品を無視しているだけだ。

ということで、新城カズマは、村上春樹的テイストの大衆文学ではなく、あくまで軽妙な文章+萌えイラストというライトノベルの土俵で勝負していってもらいたい。この作品だって、良い表紙絵を使っているのだから。これが作品中に出てくると思って買った私には、ちょっと残念な読後感が残った。