秋葉原の無差別殺人事件に思う

6月8日の昼に起きた秋葉原の無差別殺人事件(この事件の場合「通り魔」という言い方が適切なのかどうか個人的に疑問があるのであえてこう表記する)。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、自分自身があの時間にあそこにいなかったのは偶然に過ぎないのだとの思いを強く持っている。

ちょうど事件の前日のエントリー「長期的には正義は勝つのかもしれない(id:SHARP:20080607)」で僕はこう書いた。

「長期的には我々は皆死んでいる」とJ・M・ケインズは言った。もちろん皮肉として。

正義は勝ち、不正は糺されるのかもしれない、長期的には。だが、長期的には僕たちは皆死んでいる。

アウシュヴィッツから人類は学ぶだろう。こんなことが二度と起きないようにと。だが、ガス室に閉じ込められた人はもう帰ってこない。個人にとっては<生>は一度だけだ。

長期的には正義は勝つのかもしれない。だが、こうしている間にも、不正義の下で犠牲になっている個人が、きっといる。その人に対して「長期的には」などという言葉はあまりに冷たく、そしてときに残酷だ。

事件後もこの思いはなんら変わらない。ナイフで急所を刺された人はもう帰ってこない。個人にとっては<生>は一度だけだ。