おっさんはつらいよ〜『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、2019年、アメリカ)

女性差別、人種差別が「ポリコレ」で許されなくなった時代、ある意味最後に残ったのが「おっさん叩き」。

キモカネおっさん(キモくて金のないおっさん)のことは、誰も助けてくれない。

そんなおっさんが、「無敵の人」となって無差別大量殺人を犯す事件も増えている。

さて、『ジョーカー』。

DCコミックスのヒーロー『バットマン』の宿敵にして、人気ヴィラン

この作品は「いかにして彼はジョーカーとなったか」を描いている。

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(以下ネタバレ)


職業は底辺、街では若者に狩られ、公共の乗り物で子供に愛想を振りまけば「うちの子に構うな」と注意され、近所では不審者扱い。

持病があるが、福祉サービスは打ち切られ、粗末な集合住宅に帰れば、老いた母親の介護が日課となっている。

もちろん彼女などいない。

そんなどこにでもいるおっさんアーサー・フレックが、この物語の主人公だ。

不気味なまでに澄んだ瞳をもつアーサーは、決して「不正義」を働こうとも、「狂気」を拡散しようともしていなった。

だが、社会の矛盾とでもいうべき理不尽な出来事の積み重なりによって、次第に鬱憤を募らせていく。

バットマン世界ではおなじみのゴッサムシティの影の中で、富と権力を持ったトーマス・ウェインと会うことによって、彼の憎しみは増幅される。

その先に・・・

ということで、彼の矛先は「権威」へと向けられていく。

最後には「無敵の人」ジョーカーが誕生。。。


ジョーカーはよく「狂気」の人と評されるが、この作品の中ではむしろ「義憤」とか「正義感」が彼を支配し続けているのではないかとさえ思える。

そして、こうも思える。

ジョーカーとは決して特殊な存在ではなく、誰もがジョーカーになりうるのではないか、と。



政治の行き詰まりとか、格差社会の残酷さとか、孤立した中年男性の悲哀とか、2010年代の現実にも通じる「世の中の矛盾」がこれでもかというくらいに出てくる作品。

かつて、スコセッシの『タクシードライバー』で、社会的弱者の側の主人公を演じたロバート・デ・ニーロが、この作品では社会的な勝者というタレントの立場で出演していて、しかもクライマックにジョーカーによって抹殺されるという使い方が、巧妙だった。

全体的に『タクシードライバー』をオマージュしたような描写が散りばめられている。機会があれば、両者を比べて論じたいところ。

アメコミ原作ながら「コミカルな要素」はほとんどなく、ダークナイト3部作の世界観に通じるような重苦しさが支配する感じ。

映像とか音楽はスタイリッシュだが、いわゆる「エンタテインメント」作品かと言われれば全くそうではなく、内省的で思索的でダウナーな問題作、とでも呼ぶべき。


ジョーカー役のホアキン・フェニックスは、澄み切った瞳で狂気と理性の間を行き来する熱演。

歴代の映画のジョーカー役と比較すると、ヒース・レジャーの「深淵が見つめ返すような」圧倒的な“狂気”の魔力とも、ジャック・ニコルソンの古典的な大物ヴィラン感とも異なる、「どこにでもいそうなキモカネおっさん」風の悲哀を滲ませた佇まいで「誰もがジョーカーになりうる」と思わせる新しいジョーカー像を見せてくれた(ジャレッド・レトのアレは「女子向け」なのかもしれないけど、とりあえず個人的にはなかったことにしたい)。


10年代末の日本のキモカネおっさんが無防備に観るとメンタルにグサグサくるので、タイミングを選んで鑑賞するべき映画。


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