身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ―『ダークナイト・ライジング』

前作『ダークナイト』で、クリストファー・ノーランは「正義とは何か」を問うた。さて、その答はどうか―

公式サイト:映画『ダークナイト ライジング』公式サイト

かつて正義感溢れる検事であったハービー・デントを正義の象徴とすることで成立している「偽り」の平和。ゴッサム市警のゴードン本部長も、それが真実でないことを隠していることに良心の呵責を感じながらも、平和を実現するためにやむを得ないと思っている。そして、バットマンはあえてその「濡れ衣」を着ることで、ゴッサムの平和を維持できると考え、事実上の隠遁生活を送っている。だが、ゴッサムという街の持つ「光と影」は、平和の実現を許さないのだった。

「1%対99%」運動でも主張された圧倒的な「貧富の差」。その貧富の差とセットの「秩序」が正しいのか。保たれるべきものなのか。武装集団が蜂起し、警察は無力化され、市民は正義を見失う。ブルース・ウェインも持っているものを奪われる。この状況で、彼はバットマンになれるのか。なるべきなのか。

ダークナイト』が9.11の影響を受けているのに対して、『ダークナイト・ライジング』はリーマンショックの影響を強く受けている。個人的には「正義とは何か」という点について掘り下げることを期待していたが、今回は「ならず者が大量破壊兵器を持っているとすれば、それを滅ぼすことが正義」という安全地帯に後退してしまった感は否めない。すべてを失っても、いや、失ったからこそ、裸一貫で戦う資格を得る。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということなんだろう。

しかし、主人公には主人公らしい葛藤が欲しかったし、市民には市民なりの選択が欲しかった。一部の警察関係者を除いて市民が「群集」にしか見えないのは残念だった。そして、主人公の葛藤の描写は内面の「恐怖の克服」という『バットマン・ビギンズ』と同じテーマとなり、結果的にやや単調・平板になったと思う。

アン・ハサウェイのキャット・ウーマンはビジュアル的に綺麗であったし、ジョセフ・ゴードン=レヴィットの演技は、端正かつチャーミングであった。キリアン・マーフィカメオ出演も、クリストファー・ノーラン監督のファンにとっては、ニヤリとさせられるところ(というか、ノーラン組の俳優陣が全体的に『インセプション』とかぶりすぎなきらいはある)。

残念なのは、敵役が圧倒的に力不足なところ。どう見ても雑魚キャラにしか見えない。バットマンが己の存在意義を疑ったり、確かめたりするような深みのある敵役。そのような敵役がいないことこそが、3部作の集大成となる本作のスケールを小さくまとめてしまった。いまになって実感するのは、ジョーカーというキャラクターの強烈さであり、それを演じて亡くなったヒース・レジャーの偉大さだ。

3部作の最後としては綺麗にまとまったものの、歴史に残る傑作になった『ダークナイト』と比べると、どうにも物足りないという印象は拭えない。だが、ノーラン版『バットマン』の結論として観ておくべき作品であることは間違いない。