デ・キリコの不安

仕事が忙しくて、自分で写真を撮る時間も美術館に行く時間もほとんど取れない日々が続いているが、昨日、仕事の合間にオフィスを抜け出して、東京の大丸ミュージアムで「巨匠 デ・キリコ展」を鑑賞した。

MSN産経ニュース

デ・キリコの作品は「形而上絵画」と呼ばれるもので、「形而上」という言葉だけで難解なイメージがつきまとうのだが、要するに「単なる表面的なもの、個々のものを見るのではなく、より本質的で普遍的なものを見る」ということだろう。

具体的に言えば、デ・キリコは、人物を描く代わりに、顔のないマネキンを描く。

それによって、特定の個人ではなく、「人間という存在」を浮き彫りにするのだ。それによって、各作品のロケーションとなるアトリエや広場も、固有名詞のある空間ではなくなり、「宇宙の中の任意の場所」という意味を持つのだ。

だからこそ、デ・キリコの絵を眺めていると、「これがどこなのか、だれなのか、そしていつなのか全く分からない」がゆえに強い不安を感じてしまう。彼の絵の持つ「形而上」という性質ゆえに「これは私なのかもしれない」とさえ思ってしまい、得体の知れない不安は一層増幅されていく。

これは20世紀的な問題意識と関係があるだろう。「個人」「アイデンディティ」「意識」「自我」「存在意義」などの価値観が軒並み危機に晒され、その隙に入り込むような形で全体主義が先進国を席巻した。「不安な個人」に対して「まやかしの価値観」を与えるようなプロパガンダが展開された時代である。もちろん筆頭はドイツのナチズムということになるが、デ・キリコの祖国イタイアにおいても、ファシズムが台頭した。事実、デ・キリコ自身も、1938年以降、ファシズム政権が準備する博覧会の建築のために、戦争をテーマにした具象彫刻群に取り組んだという経歴を持つ*1

デ・キリコは、こうした不安を先取りしたがゆえに時代の先駆者と呼ばれ*2、パリのシュールレアリズム(「超現実」)の画家であるダリなどに大きな影響を与えた。そして、21世紀の現在においても、デ・キリコの感じた不安を払拭するすべは見出されていない。デ・キリコの絵を見ると、いまだに僕らが居心地の悪さを感じるのは、「いまがいつで、自分がどこにいて、一体だれなのか」という点について答を持っていないゆえなのだろう。

*1:もちろんそのこと自体でデ・キリコを批判する立場を採るものではない

*2:デ・キリコの「形而上絵画」の傑作の大半は第二次世界大戦前の制作のはずなのだが、公式にはなぜか制作年が1970年代とされていたりして、混乱を招く。ダリへの影響を考えれば、そんなに新しいはずはない