ルノワールの甘さについて

福田美蘭が木曜日の日経夕刊に連載している「印象派のなぜ」。今日は「ルノワールの「甘い絵」」というタイトル。読みながら膝を打った。

まず書き出しからしてこうだ。

ルノワール印象派の中でも、とりわけ人気が高い画家だろう。けれども、私のルノワール評価はいまひとつだ。

凄い。ここまではっきり言うとは。ルノワールの絵が好きだと思っている人は以前に比べれば減ったような気がするけれども、ファンを敵に回すことを恐れずに全国紙で「いまひとつだ」と言い切るのはたいしたものだと思う。僕なら「ルノワールの絵は嫌いだ」と書くかもしれないけれども。

このあと福田は、ルノワールの甘さが、当時の革命や内戦などの暗い世相の中で絵画の世界に希望を託したのではないかと考察する。仮説として十分に成り立つ話だ。

そして終盤も秀逸。

ルノワールは十分に功も名も遂げ、家族に囲まれ、恵まれた老年を迎えた。にもかかわらず、残り少ない人生の時間を賭して、心底描きたかったのがあの裸婦像なのか。だとしたら「浴女」はよくも悪くもこの画家の実体を現している。

凄い凄い。福田の言葉は、ルノワールの人格や生き様までを射程として捉える。勇気のある発言だ。でも、画家の中には、功や名を遂げず、あるいは家族に恵まれず、あるいは病に蝕まれ、不遇のうちに早い生涯を終えた人も少なくない。それを考えると、描きたいものが描けたはずのルノワールが晩年に描いていたのが豊満な裸婦というのは、いかにも残念だ(あれらの裸婦や女性像の絵が心底好きだという人には申し訳ないけれど)。この点で、筆者の意見に全く同感である。

この連載で、福田美蘭が他の印象派の画家をどう論じていくのか楽しみになってきた。