とにかくひどい話だ。
目をキラキラ輝かせてアイドルになった平手友梨奈を、大人達が「孤独なヒロイン」を演じる生贄に祭り上げて、心身ともにボロボロになって「僕は嫌だ」と叫ぶ彼女をステージに上げる。上げ続ける。
10代半ばの本人がおかしくなるのは当然だし、その周りにいるチームメイトもまともな神経を持っていたら病んでしまう。
それを臆せず撮り続けるカメラ。
これは誰の視点なんだろう。
誰のための映像なんだろう。
「平手がいないとダメなグループだと言われてもいいのか」などとパワハラまがいの鼓舞でさらに圧迫したり、2期生を入れるとともに選抜制を導入して、アイドルとして限界を極めようとするメンバーの自尊心を平気で傷つける。
挙句、平手が欠席したMVの楽曲をボツにする。
これは、失敗の記録なのだろうか。
「脱48」のモデルとして成功した乃木坂46の妹グループとして誕生し、音楽やダンスやアイドル活動をエンタメとして提供するはずだった欅坂46。
僕が一番好きだった『二人セゾン』みたいな叙情的な路線はどんどん後退し、「反逆」「反体制」をノスタルジィとして感じるロック世代に目をつけられてしまってからはバッドエンドまっしぐら。
大人の責任はどうなってるんだろうと思う。
秋元康プロデューサーはもちろん、運営しかり、それを持ち上げたロキノン方面しかり、過激路線を支持したファンしかり。
案の定、グループとしては平手が限界に達してついに脱退し、シンボルだったフロントマンを失って結局「改名、再スタート」を切らざるを得なくなった。
このグループを全く新しいグループとして<再生>させるには、彼女を<殉教者>とするこのような<神話>が必要なのだろう。
「失敗の記録」は、かくして「悲劇からの再生」のための美談へと仕立てられる。
失敗の責任を負うべき大人達の贖罪のために、悲劇を美談に昇華しようとする姿勢は、僕には受け止めきれなかった。
心が狭くて、愛も足りなくて申し訳ないけれども。。
新グループの核となる菅井友香へのインタビューを構成の中心に据えるのもいいが、彼女を最後泣かせてしまうあたり、周囲の大人のスタンスは変わっていないのではないかと感じずにはいられなかった。
欅坂46は、悲劇のイメージが付きまとう名前を捨て、明るさを感じられる「櫻坂46」への改名を発表した。
桜は、儚さの象徴でもある。
次のグループが、儚いものにならないようにと僕は祈る。
菅井友香はもちろん、この映画でフィーチャーされていた小林由依、守谷茜、小池美波、原田葵らもどうか報われてほしい。
そう感じずにはいられなかった。