日米同時公開となった2019年12月20日、IMAXレーザーの新宿TOHOシネマを選んで鑑賞して来た。
後期三部作の最初の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(J・J・エブラムス)は、往年のスターウォーズファンの求めるツボを押さえつつ、新たなヒロイン、新たなドロイド、新たな敵役を魅力的に描いた。
だが、その続編を手がけたライアン・ジョンソンは、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』で、スターウォーズの「型」とも言えるものをズタズタに破壊してしまった。
歌舞伎にも通じる「様式美」は、マンネリズムやパターナリズムと紙一重。
それをあえて「壊した」のは、伝統に則ることでファンの高齢化が進むのを危惧したゆえか、あるいは「お姫様を剣で守る」「一子相伝」的なスターウォーズの価値観が、2010年代のポリティカルコレクトネスと相いれないと考えてのことか。
いずれにしても、<物語>の創設者であるジョージ・ルーカスの手を離れた、ディズニーの意図の表れだろう。
結果的に、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は、最後に見せ場があったとは言え、「駄作」の烙印を押されてもおかしくないものになってしまった。
この決定的なピンチとでもいうべき状況からいかに脱出するか。
作品の置かれた状況自体が、まさにスターウォーズ三部作の二作目エンディングと同じ状況という、これは<フィクション>なのか、それとも<メタフィクション>なのか。
そんな状況で再度呼ばれたのが、J・J・エイブラムス監督である。
彼は、ライトセイバーならぬメガフォンを手にとって帰還した。まるでジェダイのように・・・
(以下、内容のネタバレあり)
ジャン!
ジョン・ウィリアムズ作曲のおなじみの豪華絢爛なオーケストレーションのテーマと同時に、スクリーンには銀河を進んでいる映像。
一点透視で斜めに流れていくこれまたおなじみの字幕でいきなり「死者の口が開いた!」。
これだよ、これ。
この唐突感と御都合主義こそがスターウォーズ。
本来はB級・冒険活劇なんだよ、スターウォーズは!
最初の作品からして、ろくに緻密な計画もなく、いきあたりばったりで「悪い予感がする」がジョークめいた決め台詞になるくらい、主人公たちは無謀で、無計画で、無垢だった(だからこそ『ローグワン』という傑作が生まれたわけだがそれはまた別の話)。
ただ魂が純粋、信念が強固だというだけの人たちが、困った時に「フォース」を使えばなんでもあり。
それこそがスターウォーズ。
ただの(でもよくできた)エンタメ作品なんだよ。
ということで、今回も・・・
ルークとアナキンが死力を尽くして葬り去ったはずの皇帝が、実は生きていた!
新三部作のボスキャラになるはずが前作であっけなく死んだスノークは、実は皇帝の傀儡だった!
などなど、お得意の御都合主義で<世界観>を大修正。
「伏線をきちんと回収してくれた」という意見も見たけれども、僕に言わせれば伏線なしの展開もたくさん、回収されない伏線もたくさん!
前作のエンディングで箒を動かした少年どこいったとか聞いちゃダメ!
でも、それを無視してこそのスターウォーズ!
それでいいんだよ!
冒頭、敵の攻撃から逃げるために、ファルコン号は連続でワープを行う。
機体がボロボロになりながらも。
そこで僕は気づく。
「いいか、どんどん飛ぶ。過去のことは忘れろ。前だけを見ろ。いんだよ、細けえこたあ」
それこそが、JJがこの作品の冒頭にファンに全力で伝えたかったメッセージであると。
前作との連続性を潔く断ち切れば、あとはもう目の前の世界に全力で集中すればいい。
ボスキャラは皇帝!
ルークは生きている!(霊体として)
ハン・ソロとカイロ・レンは和解できる!(心の中で)
R2D2とC3POはできるドロイド!(BB-8なにそれおいしいの?)
ローズは留守番!(キスシーンなんてなかった)
ポーは天才パイロットにして艦長!(レイアの中の人、亡くなってしまったし)
ということで、ライアン・ジョンソン監督が、というよりも、ディズニーがズタズタにして複雑骨折して、どうにも始末のつけ方が見えなくなってしまったスターウォーズ9部作の危機を、JJは大胆な改変を施すことによって、なんとか閉じることができた。
(皇帝は、自らを倒させることでレイをダークサイドに堕として後継者にしようと目論んだのか、自分が復活することを阻むレイを排除しようとしたのか…いまだに謎、というか、いんだよ細かい事は!!)
と言いつつ、「これがルーカスが見せたかった9部作か!」と胸のすくようなカタルシスが得られるかというと、そこは実は全く得られない。
レイの血筋は平凡な家系ではなく、皇帝に連なる<名門>だった。
だが、彼女は自らの運命であるフォースの暗黒面に飲まれることなく、自らの才能を正しく使った。
また、将来に禍根を残しそうなライトセイバーも誰も知らない土地(実はルークの育った地)に人知れず埋めた。
夜が明ける頃、通りがかった村人に名前を尋ねられたレイは、「レイ」「レイ・スカイウォーカー」と名乗った。
これが、スカイウォーカーの夜明けである、めでたしめでたし。
という本作の骨格は、政治的には隙のない正しさではあるが、このポリコレこそがまさに2010年代の<病>という気がする。
結局、オリジナルの3部作が「神」的な作品だとすると、プリクエルは予定調和の前日譚に過ぎないし、シークエルの方はなくても良かった蛇足であると言える。
この辺、『ローグワン』の方はよっぽど高い完成度でスターウォーズ世界の群像劇を描いており、むしろそっちの方が「見たかったスターウォーズ」になっている。
ということで、崩壊寸前だったスターウォーズ世界をなんとか綺麗にまとめたJJに敬意を表しつつ、評価は<85点>。