いままで避けてきた『A.I.』を観た。避けてきた理由はいくつかある。キューブリックのアイデアを、スピルバーグが引き継いだことへの違和感。「人間になりたがった人工物」という設定がそのまま「ピノキオ」とかぶること。母親への愛情を前面に出した愛くるしい子役が鬱陶しいこと。そして、本場の米国で興行的大失敗となったこと。
だが、遅ればせながら今回鑑賞して、これはこれでSFの佳作だと思った。観るに値する映画だと思った。同じテーマを扱っている同種の作品としては『ブレードランナー』の方が優れていると思うけれども。
少年型ロボットのデイヴィッドは、プログラムにより、人間の女性であるモニカを母親と認識させられ、彼女への愛情を植えつけられる。デイヴィッドの愛は本物の人間の愛情と見分けがつかない。そして「永遠」に続く。
モニカが死んでも、人類が滅亡しても、気が遠くなるような時間が経過してもなお、デイヴィッドのプログラムは有効であり続ける。「彼」は何があろうと、「母親」を愛し続ける。永遠に。
だが、本質的にその「愛」に意味があるのだろうか。対象物がこの世から消えてもなお存在する「愛」。僕たちはこの映画を鑑賞することで、デイヴィッドの「愛」を健気だと思う。美しいと思う。だが、それは刹那的なものだ。僕たちはいつか死ぬ。長い歴史の間にはこの映画が鑑賞されなくなるときもくる。そのときにも「デイヴィッドの愛は永遠だ」と言えるのだろうか。
観察者がいない世界に何の意味があるのか。それは哲学的な問いでもある。裏を返せば、鑑賞者がいるからこそ世界に意味があるのではないか。人間の意識こそがこの世界を世界たらしめているのではないか―。なるほど人間中心主義だと批判されるかもしれない。神を信じていると言われるのかもしれない。否定はしない。
では、生命がまったく存在しない世界にも、「愛」というものがありうるのか。悠久の時空の中でそんな状況を想像するのは刺激的なことだ。ハードSFの醍醐味だ。手塚治虫の『火の鳥』的でもある。本来、『A.I.』はそのような作品だと思う。だが、実際には、スピルバーグの語り口は「ハード」とは正反対だ。
彼はこう主張している―「人は滅んでも愛は残る」と。そして「そのような愛は美しい」と賛美する。なんともロマンティックなことだ。その愛はただのプログラムなのに。
アイは永遠か。僕の答はこうだ。『A.I.』は永遠かもしれないが、愛は永遠ではない。僕には人間の意識のないところでの「愛」というのは不毛で皮肉なものにしか思えない。スピルバーグにとってはそうでないとしても。
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