いまここにわたしがいる〜『わたしを離さないで』

この夏4冊目の早川書房カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ。以下激しくネタバレ。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

子供の頃、クローン人間の技術について知ったときにこう思った。
「僕が死んで、クローンが僕の代わりに生きるとき、社会的には僕は生きているということになるのだろう。本当の僕はもうそこにはいないのに」
「オリジナルである僕が死んで、クローンが生き残るというのは、どこか決定的に転倒している」
「僕が死ぬようなことがあれば代わりにクローンが死ぬべきだという考えに対しては、クローンは全力で抵抗するだろう」

傲慢かもしれない。だが、個人にとって生はかけがいのないものだ。僕の人生は僕以外に誰も生きられない。
だが、それはクローンにとっても同じことだ。クローンにとっても、生は生であり、現実は現実であり、存在は存在である。きっと、クローンは「私が死んでも代わりはいるもの」とか「私はたぶん三人目だから」なんて綾波レイのようなことは言わないはずだ。クローンにとっても「いまここにわたしがいる」という実存主義は、人間と同じように意味があることに違いないから。

時間の流れの中で、今ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実のうちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ないのだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥ることなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ともされる。
Wikipedia―「実存主義」より抜粋)

しかしながら、いくらクローンが人間のように「いまここにわたしがいる」と感じたとしても、誕生の起源からして本当の人間にはなれない。なぜなら、クローンは、何らかの目的のために、「クローンとして生まれてきた」はずだからだ。

では、クローンの生とは具体的にどういうものになるのか。クローンが水槽に漬かりっぱなしではなく、まるで人間のように育てられるとすれば、一体彼らの生とはどのようなものになるのか―そんな想像力の賜物がこの小説だ。ここでカズオ・イシグロは、クローンの生い立ちや心理を丁寧に描写する。愛をもって、しかしそれゆえに残酷に。そこにあるのは、未来に対する希望、思春期特有の自我の不安、恋愛に対する憧れ、心を通わせる友情、そして未知の存在に対する探究心…。これらは、なんら人間と変わることはない。

クローンが「自分は人間ではなく、人間とそっくりな何かである」ということに気が付くとき、えもいわれぬ悲しみに襲われるのだろうか。それとも自己が何者であるのかを知って安堵するのだろうか。この小説では一つの答を示している。

以下蛇足。「一般社会から隔離された世界の中で、外に何があるのかや自分が何者であるかを知らされないままに育っていく子供達」というモチーフでは、冬目景の『ハツカネズミの時間』を思い出した。

ハツカネズミの時間(1) (アフタヌーンKC)ハツカネズミの時間(2) (アフタヌーンKC)ハツカネズミの時間(3) (アフタヌーンKC)ハツカネズミの時間(4) <完> (アフタヌーンKC)