義体にとって生とは何か〜『GUNSLINGER GIRL(10)』

相田裕のこれまでの傾向からすると、トリエラに死亡フラグが立ったということではないか。

GUNSLINGER GIRL 10 (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL 10 (電撃コミックス)

トリエラは自分がかつて何者であったかを知る。そして、彼女は自分がどのようにしていまの姿になったか、その過程でヒルシャーがどのような葛藤を抱えているのかを知る。これは他の義体にはないことだ。

また、トリエラは知っている。義体は短命であり、遠くない未来に自分もアンジェリカのように命を終えることを。さらにトリエラは知っている。殺人機械として公社のために仕事をすることの空虚さを。そしてトリエラは知っている。自分の仕事をする姿が、フラテッロであるヒルシャーの苦悩を深めることを。

トリエラは決意する。「この人と一緒に 必死に生きて そして死のう」と。ここでのトリエラのヒルシャーに対する思いは、公社による「動機付け」ではなく、本当の「愛」のように思える。作品でははっきりと描写されていないものの、トリエラはヒルシャーに接吻しているように見える。さらに、見ようによっては、半裸で眠っているヒルシャーを抱いているようにも思われる。そして、この行為自体が「死亡フラグ」そのものではないかと感じられる。

いずれにせよ、トリエラに限らず、義体は長く生きられない。だからこそ必死に生きて死ぬしかない。このトリエラの悟りは正しいが、しかしそれは人間にとっても言えることだ。我々だって「必死に生きて死ぬしかない」のだ。

相田裕の描こうとしているのは、銃でも、美少女でも、殺人機械でもない。結局のところ「人間らしいとはどういうことか」という問題に迫ろうとしているのだと思う。