雨の中の涙のように―『GUNSLINGER GIRL(14)』

おれは お前ら人間には信じられぬものを見てきた
オリオン座の近くで燃えた宇宙船や
タンホイザー・ゲートのオーロラ
そういう思い出もやがて消える
時が来れば 雨の中の涙のように
その時が来た・・・・・
死ぬ時間だ
(『ブレードランナー』)

(以下ネタバレを含む)

この作品にとって、もうそろそろ風呂敷を畳む頃であることは誰もがわかっていた。だから、ここに来ての「福祉公社vs五共和国派」の最終決戦には、何の違和感もない。核汚染のリスクを背負った戦いは、2011年3月11日以降、俄然リアリティを増した。時代とのシンクロというやつかもしれない。だが、現実のスピードはもっと速い。イタリアという国家を取り巻く状況は急転直下であり、コミックは時代に置いていかれそうだ(特に巻末のイタリア特集)。本当に、もうそろそろ風呂敷を畳む頃だ。

だが、畳まれる風呂敷がオモテ向きかウラ向きか、それが問題だ。というのも、相田裕という作家が、どこまで夢想家でどこまでリアリストなのか、あるいは、どこまで素朴でどこまで皮肉屋なのか、これまでの展開からはどうもはっきりとしないからだ。倫理観も分からない。言い換えると「愛でる対象としての銃と少女」を描きたいのか、それとも「少女に銃を持たせる身勝手な大人達」を描きたいのか。前者であれば「ヘンリエッタかわいいよヘンリエッタ」という無批判な萌えマンガになるわけだし、後者であれば「これで喜ぶリョナラー、マジキモイ」という自己批判精神を含んだ作品になるはずなのだ。

この巻ではどうか。壮絶な戦場で、ヘンリエッタとジョゼの二人はほとんど心中に近い状況で絶命する。義体はいずれ死ぬという前提で、自分に使命付けられた戦闘で、同士とともに死ぬというのはある意味で「幸せ」なことかもしれない。それはジョゼにとっても本望であろう。こうした「美しい死」が描かれる。トリエラとヒルシャー、リコとジャンも同じ方向に突き進んだように見える。唯一、第二期生であるペトラとサンドロのペアだけが、より強い「生への執着」を見せているものの、自分の使命や、公社の役割に疑義を示さないという点で大差はない。

さて、それでは相田裕は風呂敷をどちらに畳もうとしているのか。

信じられないことに、この巻を読み終わっても、いまだにこの答は見えない。義体フラテッロの「美しい死」を描いているように見えるが、「ヘンリエッタは愛するジョゼに自分の存在を認められて、彼と一緒に死ねたのだから良かった」というようにも読めないし、「最後まで動機付けが解けず、公社の対テロ防衛線で使い捨てられたのだからかわいそうだ」というようにも読めない。相田裕の真意はまるでわからない。本当に不思議な作家だし、不思議な作品だと思う。

ここまでの僕個人の妄想としては「公社のあり方に疑問を持ったジョゼが、ヘンリエッタを連れて逃避行に走る」とか「逃亡したジョゼとヘンリエッタを、リコとジャンを中心に討伐に向かう」とか「対峙したジョゼとジャンの対話に刺激を受けて、トリエラが本当の自分に覚醒してヒルシャーが彼女を助けようとする」とか、まあ、一言で言えば、この「公社=義体」という理不尽なシステムに対して作品内で疑問を提示するような展開を希望していたわけだが、どうもそうならずに終わりそうだ。

いよいよ、次の第15巻が最終巻になるだろう。鍵を握るのは、おそらくクラエス。義体としては「欠陥品」であるがゆえに戦場に赴かず、強い動機付けもされていない彼女こそが、この物語の「語り部」として最後の場面で登場するのではないだろうか。そこでクラエスによって語られるのは…

私たちはいずれ死ぬべき存在。
確かなものなんて何もない。
そんな私たちにとって、いったい何が幸せなのか。
その答は自分たちで見つけるしかない。

病床のベッドの上で、薄れる記憶の中で、自分が何者であるのかを見つけた人もいた。
戦場で愛する人と一緒に最後まで戦って、自分自身の存在を刻んだ人もいた。

では、私は?
私にとっての幸せは何?

いまはまだ分からない。
確かなものなんて何もない。
ただ、音楽を聴いて、本を読んで、植物に水をやって。
そんなひとときがなんとなく幸せのように思える。

いつまでこの幸せが続くのか分からないけれど、
私は、これからも、音楽や本や植物と一緒にいたいと思う。
それだけが確かなこと。

…なんて。これもまた妄想だ。しかも重度の。

こんな感じで「世の無常」を描くのではないかと予想。義体の儚さは人間の儚さと大差ないのだ。僕たちの記憶もやがて消えてゆく。雨の中の涙のように。

GUNSLINGER GIRL(14) (DC) (電撃コミックス)

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