自意識過剰な語り手〜『太陽の塔』

森見登美彦の『太陽の塔』を読んだ。

太陽の塔 (新潮文庫)

太陽の塔 (新潮文庫)

(以下、ネタバレを含む)

主人公は、女性と縁がない学生生活を送る京都の男子大学生。水尾さんという「恋人」ができ、生活が一変するはずだったが、なんとこともあろうに(と語り手は言う)彼女は主人公を振るのだ。クリスマスの嵐が吹き荒れる京の都、巨大な妄想力の他に何も持たぬ男が無闇に疾走する。そして、ええじゃないか、ええじゃないか…

あらすじはまあざっと以上。全体を通してわけのわからない勢いはあるが、これは過剰な自意識の産物である。そして、過剰な自意識は、特に事件がないときでも事件を求める。そこで、世界と自分の戦いを始める。

主人公は冒頭、このように言っている。

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。なぜなら私が間違っているはずがないからだ。

そして一連の事件を経験したラストで、主人公はこう語る。

何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。 そして、まあ、おそらく私も間違っている。

この差分こそが、この青春小説で主人公が得た「成長」なのだろう。そう、「世界」と「僕」を対立させる二元論はしょせん青臭いものだ。「僕」は「世界」の中にこそいるのだし、「世界」とは離れて生きられない存在なのだから。ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公でもない限り。