愛と憎しみ

近親憎悪という言葉がある。これは決して「憎い」という意味での憎悪ではないのだと思う。

たとえば、肉親に対して「どうして自分はこんなにあなたの意に沿うようにやっているのに、それを理解してくれないのか」というような感情を抱くことがある。理解してくれないあまりに狂おしくなって、激しい言葉を投げつけたり、暴力的な行動を起こしたり、あるいはとことん現実逃避的な態度を示したり、ときに自傷行為に走ったりもする。

だが、この感情は憎悪ではない。愛情だ。愛を求めるがゆえに、それを与えてくれないと思い込んで、相手に対して不満を持つのだ。大半の場合には、相手は愛を与えてくれているのにもかかわらず。

本当に憎いのであれば、接点を持たなければいい。会って顔も見ないようにすればいい。記憶の中から消し去るように努力すればいい。でも、実際には理解されて、愛されたいのだ。100%理解してほしい、100%愛してほしい。そんな思いが相手に対する過度な期待となって、そのギャップが激しい感情を生むのだろう。たとえささいなギャップであったとしても。

できれば誰も憎まずに生きたいと思うのだけれども、愛情と近親憎悪、言い換えると、愛と憎しみとが背中合わせの関係にあるとすれば、人生はそんなに単純ではないのかもしれない。