僕らはどこでなら異邦人でなくなるのだろう

カミュの『異邦人』を読み返した。この小説の主人公のムルソーは、内面の良心と社会的規範が一致しないことを自覚し、それを偽らないで生きている。

だから、母親が死んでも涙を流すことはしないし、恋人のマリイに愛しているかと訊かれても「たぶん違う」とそっけなく答え、神父の前でも決して神に対する信心を示すことはない。

「異邦人」というタイトルの意味は、主人公のムルソーが、彼の属する社会が暗黙のうちに期待しているものに対して強い違和感を持っているがゆえのものだ。彼は、自らの内面を偽ってまで、そうした期待に応えるための演技をすることを拒否する。内面に忠実に生きることこそが、彼の価値観に合致する態度なのだ。そもそも、人生というものは、他者=社会の期待に沿うために自分を偽ってまで生きる価値があるのだろうか、とでもいうかのように。

たとえば、宗教があれば、僕らはこうした悩みを持たずに人生を生きることができる。世界は(この世にしろ、あの世にしろ)神のものであり、人は神の期待に沿って生きる/死ぬことで幸福を手に入れることができる。

だが、ニーチェの「神は死んだ」という言葉を引用するまでもなく、絶対的な価値観や規範が失われてきている現代で、僕らは何かを拠り所にして自らの内面の葛藤を解消するなんてことを行うのはすごく難しくなっている。

もともと宗教の影響力が小さいといわれる日本でさえ、「個人」は「世間」に対して違和感を感じて生きてきた。夏目漱石の後期の小説で主人公が苦悩してきた問題を、僕らはいまだに解決できずにいる。明治が大正になり、大正が昭和になって、世界大戦に敗れて、憲法が新しくなって、個人の尊厳が標榜され、昭和が平成になっても、問題の本質は何も変わらない。

僕らが本当に僕らでいられるところはどこなのだろう。どこにいれば自らを異邦人だと感じずにいられるのだろうか。

家庭、学校、職場、地域コミュニティ、趣味のサークル、ネット社会…。程度の差こそあれ、どこにいたとしても、僕らは何らかの違和感を感じずにはいられないことに気付く。

結局、僕らはどこにいても異邦人でなくなることはない。ならば、異邦人が自らの「生」を生きるというはどういうことなのか。たとえば、それはムルソーのように「死刑」を宣告されることなのかもしれない。あるいは、隠遁者のように、世間から離れて、ガラスの水槽の中で一人でひっそりと生きていくことなのかもしれない。もしかしたら、世間と折り合いをつけて生きて行く狭い道もどこかにあるのかもしれない。ただ、万人のために用意された答というものは存在しないのだろう。

異邦人 (新潮文庫)

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