『まどマギ』考察序論―蛇足のようなあとがき

前回(『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(完) - Sharpのアンシャープ日記)より続く。

4月26日付エントリー(『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(1) - Sharpのアンシャープ日記)に対するとくもとさんのコメントに僕は以下のように答えた。

まどマギのループの解決が、キリスト教的/ヘーゲル的であるというご意見は興味深いですね。まどかが因果の糸に縛られている姿は、確かにイエスを連想させますし。

では「ここに嘆く幼き子供がいる」というカラマーゾフの大審問官への問いに、まどかは答えられるのだろうか。『まどマギ』最終話Bパートで示唆されたのは、おそらくそのような子供を救済しようとするまどかの願いからも零れるような小さな悲劇はありうる。それを拾うのが、ほむらとキュゥべえの役割ということなるのでしょう。その点でほむらは新たなシンジになったのかもしれません。

ほむらの因果律のループによる古い物語は、まどかのゼロ年代的な決断により解体され、再びほむらによる新しい物語が始まった。そこで、ほむらは逃げ出したり、やり直そうとしたりはしない。だって、彼女は「神」の加護の下で戦っているのですから。

そう。

ニーチェが、いや、誰かが「神」を殺してしまったあと、僕らはループという迷宮に閉じ込められた。
宝を探す人がいたり、迷うこと自体を楽しむ人もいた。まるで、繭<コクーン>の中にいるように。マトリクスのように。

だが、やがて僕らは気付く。

この迷宮には宝などなく、出口もないことに。それだけではない。僕らはぐるぐると回っているうちに取り返しがつかないくらいに年をとっていくことに。「失われたときを求めて」といっても、失われたときを再び獲得することなどできないのだ。

90年代。あるいはポストモダン。あるいはエヴァ。何と呼んでもしっくりこないが、僕らのこの心地よい繭<コクーン>に幕を引いたのはゼロ年代だった。あるいは決断主義。あるいは等価交換。あるいは最終話のまどか。何かを犠牲にしてなくては何も実現できないこと。何かを支払わずには何も獲得できないこと。

まどかは願った。新しい世界秩序を。ほむらのループのシステムどころか、「魔法少女を魔女にしてエネルギーを得る」というキュゥべえのシステムさえを壊すほどの願い。それは、古今東西の不幸や絶望を根絶すること。そんなことができるのは神だけなのに。こうして、まどかは神になった。

そう。誰かが殺したはずの神は、誰かに求められて蘇った。神は死んだ、だが、生き返ったのだ。9・11後のアメリカでも、中東でも。ゼロ年代決断主義の本質とはそういうことだと思う。

そして、僕らが生きる10年代。ほむらは新しい神が作り出した世界の秩序を護る。神の加護を受けながら。彼女にとってはそれは天命であり天職なのだ。もはやループなどしない。神の理想を実現するために、そのほかの選択肢など一切考慮せず、ほむらは黙々と自らの役割を果たす。もはや碇シンジ(旧エヴァ)のように自分の存在意義を疑ったりはしない。

2011年4月、僕らは新たな神話の誕生を目撃した。もっとも、僕らがほむらのように新たな神話の下で生きていけるかどうかは別問題であるけれども(「新劇場版ヱヴァ」のシンジはループせずに生きていけそうだよな)。

(『まどマギ』考察序論のエントリーまとめ)
『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(1) - Sharpのアンシャープ日記
『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(2) - Sharpのアンシャープ日記
『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(完) - Sharpのアンシャープ日記
『まどマギ』考察序論―蛇足のようなあとがき - Sharpのアンシャープ日記