黒船の前でお家騒動をする愚かさ

誰も全体が見えないとき。あるいは、一部分が独立ないし孤立しているとき。または、本質的に必然性のほとんどない境界によって、本来全体であるべき実体が複数に分割されているとき。

そんなときに、全体最適を議論するものは少ない。その代わりにあるのは、自分の周りを最適化しようという試みばかりだ。もちろんこれ自体は本質的に悪意のあることではない。

が、個々に、言い換えると、部分部分でそれをやり始めると、機能の重複、または不在、または余分な調整を行う必要性が生まれる。部分最適を追求する過程で、本来は必要のない取捨選択が行われてしまうこともある。その結果、全体最適のために必要な資源が失われることもある。

自家中毒のようなお家騒動(いわゆる「コップの中の嵐」)が起こることも珍しくない。その労力は周囲を疲弊させる。それを集中して外に向けたら、どんな偉業な成し遂げられるだろうというほどの労力。

黒船の前でお家騒動をする愚かさを、人はいつも繰り返す。「藩をどうするか」なんていうのは部分最適だ。そうした視野狭窄を克服し、幕府はどうあるべきか、日本はどうあるべきかということを考えたのが、幕末の志士であり、明治政府の立役者達だ。既存の枠組を超越する偉大さ。

もちろん現在の基準では、「日本」が全体ではないし、「アジア」が全体というわけでもない。僕らは21世紀に生きている。より大きなものを「全体」として考えるべき時代だ。9.11やブッシュに対する批判も、そこから生まれる。