必要悪を演じることについて

公正な配分が実現される仕組みができていないところでは、結局、声の大きい者が得をすることがある。だが、そんなものがまかり通っていたら、全体最適はいつになっても実現されない。

このような状況では、全体最適のことを考えて利己的な要求を引っ込めれば引っ込めるほど、自身の権利や利益はどんどん侵されていく。そしてその結果、全体最適とは程遠いゆがんた状況が進展していく。

かつて、ヤミ米の購入を拒んで栄養失調となって死んだ判事がいた。おそらく、彼は個人の信条として清廉潔白であろうとしただけではない。ヤミ業者のはびこるような社会は正しい社会ではない、そのような経済システムはおかしい、と考えて、現存するシステムに対するレジスタンスを貫いたのだと思う。その結果が「死」だ。

ここに、ジレンマが存在すると言える。つまり、歪んだ状況を正すということを個人レベルで貫いても効果はほとんどない。そこで待っているのは、その個人の「死」だ。そして個人の「死」を避けるためには、自ら望むわけではないエゴイスティックな主張を行なわなくてはいけない。なんと過酷なことだろう。醜いと分かりつつも、必要悪を「演じ」なくてはならないとは。

いまさら「神」が最適な配分を実現してくれるなんてことは期待していない。でも、利己的なものが生存闘争を繰り広げて、勝者になったものが残っていくことが物事の道理にかなっているのだ、などというネオ=ダーウィニズムの信者にもなれない。

ということは、自ら望まない演技を続けて生き延びるしかないのだろうか。それとも、正義のために殉死するべきなのか。なかなか答は出ないが、とりあえず今日もコメ*1を食べずには、生きていくことはできない。

*1:パンでもケーキでもパスタでもなんでもいいけど