「だいたいでいいじゃない」と思いたいが

『だいたいで、いいじゃない』は、大塚英志吉本隆明の対談集。

だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)

だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)

対談は4回行われているが、一番面白いのは、1997年11月に行われた「エヴァンゲリオン・アンバウンド」と名付けられた第1回。
この対談の中で大塚は、『エヴァンゲリオン』とそれを生み出した庵野秀明について次のように解説している。

…つまり碇シンジ君が母体を求めたように、お客さんたちも『エヴァンゲリオン』に自己探しとか、母性への願望みたいなものを無自覚に求めたときに、いわばそれを全部突き放していく。で、ストーリーはすごく説明しにくいんだけど、綾波レイっていうのは実はお母さんで、綾波がすごく大きくなっていって、シンジ君を取り込んでいくみたいなシーンがあって、結局、一種の近親相姦というか、母体回帰が描かれて、地球も滅びちゃって、なぜか一番最後に、シンジっていう少年と、アスカっていう女の子だけが残ってて、普通だったらそこで二人が残って、ここから何かが始まるという落ちはあると思うんです。陳腐なやり方だけど、SF映画の典型で、二人がアダムとイブで、これから新しい人類が……と。
 でも、庵野は、それさえしない。他者としてのアスカに徹底して拒まれ、ぷつりと終わる。宮崎勤が女の子の首を絞めるまさのその前段の感情みたいなものを、お客さんの側にぽーんとほうり投げたというエンディングになっているんです。

(『だいたいで、いいじゃない』第一章「エヴァンゲリオン・アンバウンド」より)

すごく正しい理解だと思う。吉本はこの対談に先立ってTV版のエヴァ全話を観ることを課されたようだが、ここでは謙虚に聞き役に回っている。

巻末には、富野由悠季が「もっとだいたいでいいじゃないか」という解説を寄せており、この中で『エヴァンゲリオン』という作品に対する不快感を露わにしていて、こちらもなかなか面白い。ハイライトを以下に引用。

…ぼくにとっては、あんなガキレベルの作品を作品としてもちあげて商売として利用する大人の不節操はみっともないでしょう、というアナログ的な怒りをもってしまう。こちらの年代が父的な時空にいるからではなく、なにも考えていない本能だけの衝動の作品なんかは、それはまだ作品以前でしょうということだ。

富野由悠季「もっとだいたいでいいじゃないか」)

なるほど。確かにガンダムと対比したときのエヴァンゲリオンの世界設定の稚拙さは目を覆いたくなるほどだし、碇シンジのパーソナリティは、人格障害といわれることもあるアムロやカミーユと並べてさえ、哀しいくらいに平板だ。富野がそうしたものを「作品以前」だとして認めないというのはもっともだと言える。

ただ、このようにエヴァ=庵野を批判している富野も、『エヴァンゲリオン』というコンテンツが、数々の欠点を持つにもかかわらずTV版放送開始から10年の歳月を経ていまだに熱狂的な支持を得ているという事実については、渋々ながらも認めざるをえないのではないだろうか。たとえば、富野は、Zガンダムの映画化を機に、カミーユの「厭世観の行き着く先としての精神崩壊」というTV版のエンディングを大きく変えることにしたと宣言している。この重大な変更の持つ意味は、<アンチ=エヴァ>としての<新訳ゼータガンダム>を提示したいのではないか。恐らくは、富野が持つ庵野への嫌悪感が原動力になっているのだろうが、このことは富野の中においても『エヴァンゲリオン』という作品が、決して無視できない存在となってしまっていることを、かえって浮き彫りにしているように思う。

さて、この対談集に話を戻すと、厳密さの追求と裏腹に全体観を見失いがちなオタクに対して、吉本と大塚は「だいたいで、いいじゃない」と、適度なユルさの必要性を主張する。それがこの対談集のタイトルの意味である。そして、富野はこれに輪をかける格好で「もっとだいたいでいいじゃないか」と釘を刺す。

しかし、僕達は「だいたいでいい」なんて鷹揚な心境を保ち続けることができるほど、おおらかじゃない。少なくとも、いつもいつもそんな気持ちで世界と向き合うことができるわけじゃない。息が詰まるような状況に追い込まれて「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ…」という言葉を念仏のように唱えながらも現実逃避しようとするシンジの姿勢に、よっぽどリアリティを感じてしまう。

吉本や大塚が主張するように「だいたいでいいじゃない」なんて、誰もが思えるようになったなら、この世から鬱も自殺もなくなるだろう。でも、それは現実には容易なことではないのだ。