歴史を作るのは誰か〜『北神伝綺』

歴史を作るのは誰かと聞かれたら「歴史を記す者」だと答えることにしている。要するに「記録に残したもの勝ち」なのだ。だから歴史は長年権力者のものだった。これは洋の東西を問わない。

こうした歴史観に対して、民衆に着目して時代を考察するのが民俗学だ。歴史研究において「権力と権力の対立」という図式ではなく、「権力と民衆の関係」に着目するのが民俗学であるといってもよい。場合によっては権力は登場さえしないかもしれない。

日本の民俗学の祖は、疑いようもなく『遠野物語』を記した柳田國男だろう。柳田の原点は、東北地方の伝承の記録(聞き取り)である。最初は、日本国内における稀少な民話の蒐集を行っていた柳田が、後年になると日本の「原型」的なものを追い求めるようになったことはある種の変質と呼べるかもしれない。もっというと、学問的には転向だと見ることもできるだろう。

こうした柳田の「転向」を当時の大日本帝国のファッショ化と結びつけ、権力者による先住民=山人(山の民)の迫害と、彼らに対する関係者の思惑の交叉から生まれる事件を昭和史として描いたのが、大塚英志森美夏による『北神伝綺』だ。

北神伝綺 (上) (ニュータイプ100%コミックス)

北神伝綺 (上) (ニュータイプ100%コミックス)


北神伝綺 (下) (ニュータイプ100%コミックス)

北神伝綺 (下) (ニュータイプ100%コミックス)

柳田國男の他、宮沢賢治竹久夢二伊藤晴雨甘粕正彦出口王仁三郎北一輝江戸川乱歩などの当時の歴史を彩る人物が、こうした山人をめぐる闘争と巧妙に絡み合う。もちろん大部分がフィクションなのだが、ニ・二六事件や、満州事変などのような実際の歴史的事件を背景に描いていて、非常にリアルな出来事のように感じさせる。

私の考えでは、当時の政府(権力者)によって迫害される山人(山の民)というのは一種の比喩(メタファー)に過ぎず、教育・思想・報道・芸術など、ありとあらゆる分野において統制を強める政府が少数者(マイノリティ)を迫害する様子を、「山人」を被害者の象徴として描いただけだ。そして、こうした少数者の撲滅=多様性の排除というのが、結局日本という国の器を小さくして、大国に対する勝ち目のない戦に走らせたさまが、直接的にはでないにしても、暗く重く描かれていく。

マンガ的魅力としては、まず主人公が文句なしに格好いい。山人(山の民)の血を引き、柳田國男に破門された元弟子の兵頭北神がとてもクール。画一化を強いる権力に対峙する北神の姿はとても凛々しい。全ての人民に対して服従を強いる政府や軍部の胡散臭さと対比して、多様性を維持しようとうする彼の信念を描いている。

次に、森美夏の絵もこの伝奇的作品にふさわしい不思議な雰囲気を醸し出している。それでいて、エログロに走っていないのが素晴しい。コマ割のスピード感、躍動感と合わせて、抜群のセンスの良さを感じさせる。

ただ、残念なのは、掲載誌の廃刊という事実上の打ち切りにも近い形でマンガに終止符が打たれたことだ。満州を山人の「約束の地」にしようという一派の動きと、暗躍する甘粕正彦、それを未然に防ごうとする兵頭北神の対立の構図がかなり早い段階から示されるのにもかかわらず、予想以上に早い打ち切りによって、この二人の直接対決を拝むことはできない。妹の滝子も来るべき直接対決では「妹の力(いものちから)」を発揮するはずであり、その場面への期待も膨らむ。

こんなに自分の趣味に合う作品を今まで読んでいなかったことを後悔。そして教えてくれた人に感謝。これは自分の人生において絶対に読んでおくべき作品だと確信した。続編、というか完結編が待ち遠しい*1大日本帝国の暗部を記すことによって、大塚英志は、オルタナティブな歴史の創出者たろうとしているのだ。そして、その試みは成功していると思う。

*1:姉妹編で『木島日記』なるものが世に出ているので、当分こっちが優先か。近日中にブログにエントリーしたいと思っている