なぜこれが日本で作れないのか―『終戦のエンペラー』

フェラーズは、昭和天皇に君主としての責任があることは明らかだが、開戦の主導者ではなく、また昭和天皇は国民の信望を得ており、昭和天皇の「聖断」によって米国の被害を減らすことができたのに、戦犯として裁判にかけるならば日本国民が占領軍に反抗し、占領に多大なコストがかかるとして、天皇の戦犯指定に反対したのである。
古川隆久昭和天皇』)

このフェラーズ(マシュー・フォックス)を主人公に据えた映画が『終戦のエンペラー』である。彼は日本から米国に留学していたアヤ(初音映莉子)と出会うことで日本に関心を持ち、日本を研究する「日本通」となる。終戦後、マッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)の下で、太平洋戦争の責任の所在を調査するために、日本を訪れるという設定。

当然だが、主題は「昭和天皇に戦争責任はあったのか」という一点に絞られる。アメリカ本国からのプレッシャーを受けながら大統領選出馬という野望を持ち手柄をあげたいマッカーサー。アヤへの再会を切望しながら「建前と本音」という日本文化を背景にどのような政策過程があったのかを追求してくフェラーズ。

自らの信念に基づきひたすら職業的使命を果たそうとする主人公。彼には当然のことながら想いを寄せる女性がいる。だが、歴史の大きな流れは、愛し合う二人を翻弄するかのようにうねっていく。それでも、歴史の流れの中で自分の生きた証が残せるとしたら―それを正面から描いた作品だと言えるだろう。

宮崎駿が『風立ちぬ』で描写を避けた「歴史へのコミットメント」に、フェラーズは正面から取り組む。自らの専門性を生かすため。愛する人の生を無駄にしないため。そして、正しいことを成し遂げるため。歴史と個人の関係はかくあるべき、と思わずにはいられない。

それにしても、天皇の戦争責任を論じることはもはやタブーではない。2011年頃に昭和天皇に関する出版がラッシュになり、冒頭に引用したようなこともいまや定説となっている。日本の映画界だけが、そのタブーから抜け出せていないだけだ。日本の映画人はこのような作品までもがアメリカの手によって生み出されることを悔しいと思わないのだろうか。

出演している日本人俳優はみな存在感を示していた。ヒロインのアヤを演じた初音映莉子の静かだが凛とした美しい佇まいは特筆すべき(初音映莉子は映画『ノルウェイの森』でハツミさんを演じたが、直子を演じた菊地凛子よりもよほど原作のキャラクターを再現していたことを思い出した)。

また、アヤの伯父の鹿島を演じた西田敏行の英語の演技も実に堂々としたものだった。あと印象に残るのはフェラーズの運転手兼通訳を演じた羽田昌義。サムライを感じさせる存在感で、このままいけば渡辺謙に匹敵するハリウッド俳優に成長しそうだ。

この夏のオタク向けの傑作『パシフィック・リム』といい、なぜこのような作品が日本で作れないのか、本当に不思議でならない。