『風立ちぬ』―持てる男の自己正当化の物語

才能に恵まれ、食べるに困らず、人に愛される―宮崎駿の『風立ちぬ』は、そんな男の物語だった。

そして、この「持てる」男・二郎が追い求めるのは、「絶対」だ。神の領域というべきか、天才のみがたどり着ける境地というべきか。上司も同僚も二郎の才能を理解するが、二郎が心を通わせるのは、イタリア人の飛行機製作者のジャンニ・カプローニのみだと言ってもいい。それも夢のなかで。まるで啓示のような形で。

「真・善・美」で言えば、二郎の価値観には、真も善もない。主人公の二郎は、ひたすら「絶対的な美」を追求し続ける。起きているときは仕事場で、眠っているときには夢の中で。

三菱で「零戦」を生み出したエンジニアの堀越二郎の物語と、軽井沢で静養する女性を見つめる『風立ちぬ』の小説を残した堀辰雄の物語は、一人の「二郎」の物語として上手く統合されているとはいえない。だが、堀越二郎が飛行機に賭ける情熱と、堀辰雄の小説の主人公が恋人に向ける愛情は、ともに邪なものがないという共通点がある。あたかも「社会」など存在していないといわんばかりに、どうしようもなく浮世離れしている。

もちろん現実はそうではない。資源がなければ飛行機は作れないし、飛ぶこともできない。治療がなされなければ結核は治らない。主人公に葛藤があるように見えないのは、食べるに困ることがないだけの財力を有して、自分が好きなことにだけ打ち込んでいるからだろう。

また、彼の作り出す零戦が戦争で使われることや人命を失うことに対して、自責の念を感じる様子も見られない。それは彼が政治的に安全な場所にいるからだ。徴兵を受けることもない。特高に目を付けられていても周囲が彼を守ってくれる。上司は仲人となり、あまつさえ住まいまで提供してくれるのだから。

主人公に対してはさまざまな批判があり得るだろう。自分の夢ばかり追いかけていて身勝手だとか、結核患者の隣でタバコを吸っているだとか、結果的に敗戦となった戦に加担したとか。しかし、用意周到な宮崎駿は、そうした批判一つ一つに万全を期すべく言い訳のシークエンスを用意している。そして決定的にひどい場面は直接に描かれることはない。零戦が敵陣に飛んでいくところや、多くの命を失わせるところもそうだし、奥さんが亡くなっていく場面もそうだ。都合の悪いところは夢の中で間接的に語られるのみ。その結果、どうやっても主人公が許されるような話の展開になっている。

いや、宮崎が用意したのは、言い訳のシークエンスだけではない。二郎の声優に庵野秀明を選んだこともそれだ。あの棒読みは宮崎の狙い通りに違いない。もし、これが弁舌爽やかな俳優が二郎を演じていたとしたら、二郎はずいぶんと計算高くて不遜な人物に見えていただろう。決して悩まず、また手を汚すこともない嫌な奴に。

そんな二郎を演じるのが、朴訥でどこか浮世離れしたところのある庵野だから、この人物の醜いところを減じる効果があった。

結局のところ、この作品は「持てる孤高の男」を描いたものであり、エンタテインメントでは全くない。純愛の物語でさえもない。本来は「分かるやつだけ分かればいい」という類の作品だ。才能あるクリエイターやエンジニアで共感する人もいるかもしれないが、TV局や広告代理店がマス展開で煽るほど、この作品の理解者の裾野は広くない。「ハズレだ」と感じた人も少なくないのではないか。

三菱は堀越二郎に「大きな仕事をするためのヒト・モノ・カネ」を提供した。日本テレビや電通は宮崎にカネを提供した。興行収入を当て込んで。だから、彼らは必死に宣伝して投資を回収しなくてはならない。その回収を焦るあまりに作品の射程にいないファミリー層にまでターゲットを広げてしまっており、それゆえに「賛否両論」を生み出しているのが現状だ。なんとお化粧しようと、本質的には、成功したクリエイターの私小説に過ぎないというのに。

最後に荒井由実の『ひこうき雲』が流れる。この曲は自殺した友人を弔う「死に寄り添う」名曲だと思うが、「ひこうき」という言葉が繋がっているだけで、『風立ちぬ』の自己肯定の物語とは決定的に相入れない。「生きねば」というメッセージに沿った曲などたくさんあるだろうに、この曲を選ぶあたりにも、俗っぽい嫌なものを感じた。この商業主義的なタイアップについても、物語の中で二郎が手を汚さないのと同様、宮崎駿には何の責任もないということなのだろうけど。