何かを得るためには何かを失わなくてはならない―『シュタインズゲート』(2)

シュタインズゲート』をプレイ中。「Chapter7 虚像歪曲のコンプレックス」まで来た。以下、軽く感想を。軽いネタバレがあるかもしれないので注意。

タイムマシン的な手段により過去に遡って事象に変更を加えれば、因果律は少なからぬ影響を受ける。原因が変われば結果も変わる。

誰かの願いが叶うとき、ほかの誰かは泣いている。

一つの因果は、シュタインズゲートの中では「世界線」と呼ばれる。我々の世界/宇宙は、いくつもの世界線が寄り合った束として存在しており、過去が変わると、その変化の度合いに応じて、世界線が移動する。ある種のパラレルワールドのように。

すべての世界線を認識し、時空の因果を思いのままに操れるものはいない。いや、もしいたとすれば、そのものは「神」と呼ばれるべき存在だ。

世界線が多少移動したところで、歴史の根幹をなす大きな因果は変わらない。誰かが自分の身近な人の過去を変えたところで、ほとんどの場合には、戦争や災害を避けることは難しい。

だが、世界線が大きく移動すれば、歴史の根幹を変える可能性はある。それが、小さな因果の変更の積み重ねであれ、大きな因果の変更であれ。あるシキイ値を越えれば、別の世界線に到達することは可能だ。

だが、そこで元の歴史は事実上失われる。何かを得るためには、何かを失わねばならない。この選択、この決断ができることが、このゲームのルールの中で勝利を獲得する条件だ。「これがシュタインズゲートの選択だ!」と僭称できることもまた才能なのだ。

世のギャルゲーの主人公は、優柔不断で自分本位なだけの男が多く、いささかそのステロタイプに辟易している。が、この作品の場合、主人公の男に強いリーダーシップがあり、それでいて女性にも優しい。これはプレイていて本当に気分がいいと認めざるを得ない。『アマガミ』の主人公にも通じるものがある。