遺書を書いたら〜『Everyman, everywhere』全曲インプレ

まるで遺書のような雰囲気を持った小品集---GRAPEVINEの5曲入りミニアルバム『Everyman, everywhere』を一言で表すならば、そんな作品だと言える。いや、「作品」というよりは、ほとんど独白に近い。そんなアルバムだ。

Everyman,everywhere(初回限定盤)(DVD付)

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ジャケットの写真は、リーダーの西原が脱退したあとに残された3人のメンバーが沈んだ表情で森の中を彷徨っているようなものばかりで、眺める者をざわざわと不安にさせる。
5つの曲は、どれも内省的で厭世的で、そして回顧的だ。どの曲の根底にも、現実逃避の気分が横たわっている。メッセージソングなんかない。もちろんラブソングもない。ここにあるのは、裸の自分を見つめている田中の姿。それだけ。
そんなことをするのは、禁欲的な修行僧か、世をはかなんで自殺しようとしている者かいずれかだろう。弱さもずるさもさらけだして、ここからどこに行こうとするのか。その姿を目の当たりに見せられた僕は、一体どう受け止めればいいのか。
誰の内面にも潜むであろう「深遠な闇」の一端に触れることのできる傑作だが、これを聴くときには注意しなくてはならない。これを聴く者もまた、深遠な闇から手を伸ばされて、つかまれそうになっているということに。そんなわけで全曲インプレ。

1.Metamorphose
 表題は、カフカの『変身(Metamorphosis)』からだと思われる。詞中にも「変身」だの「審判」だのといったカフカの作品名がちりばめられている。にもかかわらず、それとははっきり書いていない。ばかりか、「カフカのファンで」と歌っているところを、歌詞カードでは「カスカなフアンで」と表記していて、一筋縄ではいかないひねくりぶりを感じさせる。
『変身』の主人公のグレーゴルはセールスマンだったわけだが、この曲ではスーツを着て社会に適応している人々への嫌悪感を隠していない。
では、社会に適応できない者は一体どうしたらいいのだろう? 変身する? 何に? 牛に? ダダイストに? 虫に? でも、そうしたら「社会」から逃げ出せるのだろうか? 本当に?
それは誰にも分からないし、それにそもそも僕らは変身なんてできっこないのだ、最初から。

2.Reason
アコースティックギターのストロークと、エレキギターのリフの絡みが心地よい曲。だが、歌詞は皮肉に満ちている。
 「ほら きっとまた 素敵な言葉を 誰かがかけてくれるさ もう嫌という程」
 要するに「放っておいてくれ」という意味なのだが、その心情をここまで回りくどい言い方に置き換えているところに、「誰も信じられない」という態度が現われている。人間不信。結局、他人の行為は、全ては偽善なのか。それなら、自分自身はどうか。自分は、自分だけは純粋で無垢だと言えるのか?
 否。「誤魔化したいだけ」「もう忘れたいだけ」なんて、自分自身だって、合理化や自己正当化をしているじゃないか。どうしたらいい? それならば、どうしたらいい? 
 「人は毎度相違する」のが真理だということにして、一般論に逃避して、目の前の問題に目をつぶるのか? 自分を守るために。
 「他人の所為にしたReason(=言い訳)」「たまに不意に逃避する」という自分の弱い姿をありのままに見つめる田中は、すごく勇気があると思う。
 ちなみに、タイトルの"Reason"という単語はいくつもの意味を持っているが、ここでは「言い訳」という意味に解するのがいちばんしっくり来ると感じる。

3.Everyman, everywhere
 表題曲。「どこにでもいるありふれた人」というような意味らしい。ストリングスを大々的に導入した壮大なバラード。adabana tour 2005の最終日の2回目のアンコールのラスト、つまりこの長いツアーの最後を飾ったのはこの曲だった。まさに「グランドフィナーレ」と呼ぶに相応しい作品の風格を備えている。
 しかし、そのフィナーレは、ライブの最後という以上の意味を持つかのように、歌詞は重いものを抱え込んでいる。
 「例えばぼくらは 戻れない所まで行く」
 こう歌う田中は、決して「例え」の話をしているわけではない。実際には、もう戻れないところに来てしまったのだ。それは誰もいない森の奥かもしれない。あるいは、常人の踏み入れない荒野かもしれない。
 「あどけないふりをしていたいだけ」なのに、もうそんなイノセントではいられないんだ。総括への覚悟を感じさせると同時に、しょせんは"Everyman, everywhere(どこにでもいるありふれた人)"に過ぎない我が身を振り返って、目の前が暗くなっていく…

4.スイマー

 淡々としたドラムのリズムに乗せて、抑揚のないヴォーカルが、断片的な歌詞を呟くように吐きだしていく。まるで、キャンバスの上に、点を重ねて置いていく印象派の画家のように。
 ときに焦燥感を覚えたり、無力感を抱いたり、自分を見失いそうになりながら、波間にたゆたう儚いスイマーのように、僕らは、現実に、世界に、立ち向かっていく。一層泳いで、泳いで、泳いで、でもどこの岸に着くのだろう。
 「世界は何も告げない」ことに薄々感付いているのに。もうここまで泳いできて頑張ったのだから、ここで止めてもいいかもしれない。「唯一のマスターピースは どうにか完成した」のだから、それを遺作にして、力尽きても構わないかもしれない…
 「もっと泳げ」とか「一層泳げ」との掛け声も虚しく、大海の中で溺れていくように、静かに曲が終わる。

5.作家の顛末

 アコースティックギター2本とキーボードで静かに始まる。短調(マイナー)の切ないコードが掻き鳴らされる。
 「取留めのない事ばかり書いていました」と自分の過去を悔いるように回顧する独白が続く。そして「つまらぬメモ」(=これまで書いてきた作品を指していると想像される)はもう捨てたといい、「ここにはまた新たな命が宿るのでしょうか」と誰にともなく問う。いや、自分の命が消えた後、どうなるのかについて神に確かめようとしているのだろう。
 遺書のように、思いを余り無く表出した後、曲はまるで"こときれるように"唐突に終わる。

 なんだか全体的に暗いインプレになっていまったけれど、このミニアルバムが絶望感に満ちているかというとそうでもない。恐らく、人間の生と死を極限まで見詰めたときに立ち現われてくるある種の「覚悟」が、これら5曲の作品群を貫いているからなのだろう。
 死を間近に控えた人々が、一様に「世界は美しい」と語るように、そして、そうした言葉や作品が、それに触れる人々に、一様に清清しさを感じさせるように、このアルバムもどこか澄んだ雰囲気を漂わせている。そして、GRAPEVINEの他の作品と同じように、聴くほどにそこから抜け出せなくなる中毒性を持っている。

 VINEは、この作品を世に問うた後も精力的に活動を続けていて、生物的にはもちろん音楽的にも生き長らえている。だから「遺書」とか「遺作」とか評するのは、実際には不適当だと言われればその通りかもしれない。ただ、そういう覚悟で生み出された作品であるということは、直感的に理解できる。

 僕もまた、遺書を書いたら、違う世界が見えてくるのだろうか---出張先から戻るスーツ姿のビジネスマンであふれかえる新幹線の座席に座りながら、ふとそんなことを考えた。