犬は吠えるがオザケンは進む

『芝居遊戯』でコラボレーションしたショウさんと、二人とも大好きな小沢健二の話をしているときに*1、ショウさんがこんなことを言っていた。

私も「犬…」も好きです!
なんというか、未完成でもがいてる感じが。
そして、遠くに絶対美しいものがあると信じている感じが!
「LIFE」では、その存在は確信的なものだけど、
「犬…」ではまだ、不安定でそこがいいなと思います。

ここでの「犬…」は小沢健二のデビューアルバムの「犬は吠えるがキャラバンは進む」のこと、そして「LIFE」は彼のセカンドアルバムのことだ。

「犬…」が未完成でもがいているというのと、「LIFE」が確信的だというショウさんの感覚にはほぼ同意するのだが、「犬…」大好きな私にあのアルバムの魅力を語らせてもらうならば、あそこには裸の小沢健二がいる。フリッパーズ・ギターを解散して、レコード会社を移籍し、裸一貫になった自分自身を表現する方法を模索しているというべきか。ときに非フリッパーズ的に、ときに赤裸々に、彼の表現したいものを吐き出している。もちろん、洋楽のパクリ巧みな引用をベースにはしているが、歌詞には小沢らしい毒がちりばめられている。

「ローラースケート・パーク」のCメロで歌われている「意味なんてもう何も無いなんて 僕がとばしすぎたジョークさ」というフレーズは、フリッパーズ時代の「ハイファイないたずらさ きっと意味なんてないさ」(BIG BAND BINGO)への返歌のようにも聞こえる。ポストモダン相対主義から、地に足の着いた実存主義へ、というわけでもないのだろうが、この転回は小沢にとって重要なターニングポイントになったと思う。これは、小山田圭吾コーネリアス名義でデビューした曲で「あらかじめ分かっているのさ 意味なんてどこにもないさ」(太陽は僕の敵)と相変わらずのフリッパー節をうそぶいていたのと対照的だ。これがあってこそ、「LIFE」でリアルな恋愛について語ることができるようになったのだと思う。

確かに「LIFE」は傑作だ。疑いようがない。聴く人を幸せな気分にすると思う。しかしながら、私自身は、「LIFE」がファーストアルバムよりもさらに高い境地に達したとは思っていない。LIFEでの小沢は、ラブリーという衣をまとっている。たとえて言えば、「王子」というコスプレをしてレコーディングした作品なのだ。もちろんそれは極上のコスチュームなのだが。ショウさんのいう「その存在は確信的なもの」というのは言いえて妙だと思う。

だが、私自身はやっぱり「LIFE」よりも「犬…」が好きだ。そこに見える、フリッパーズの虚像が生み出す呪縛から逃れようともがいている裸のオザケンを、私は愛してやまないから。

犬は吠えるがキャラバンは進む

犬は吠えるがキャラバンは進む

LIFE

LIFE

*1:といっても、遠く離れているのでネット上で