これはエヴァではない〜Zガンダム-星を継ぐ者-

Zガンダム-星を継ぐ者-を観た。顔の造形を現代的にチューニングされたキャラクター、より躍動的な動きを与えられたモビルスーツ、そしてGacktの主題歌。ゼータ、何もかもが新しい。SEEDの優れた面の成果を積極的に取り入れている。

だが、20年前に放映されていたTV版と最も違うのは、おそらく主人公のカミーユ・ビダンの性格だ。TV版では、反抗的でキレやすい少年で、周囲に心を閉ざしたままに戦い続けるというキャラクターだった。爪を噛むのが癖、というのが何よりも象徴的だろう。ファーストガンダムの続編の主人公としては、異常なまでのアンチヒーローぶりであり、意図的に感情移入しにくくなっている。これは「ロボット物アニメ」への富野流のアンチテーゼだったのだと思う。

しかし、世相は変わった。

90年代を通じた景気後退とデフレによって、未来は予見しにくくなった。若い世代が夢を抱くことも難しい時代になり、カミーユが初めてブラウン管に登場したときに比べると、キレる10代は全く珍しくなくなった。またキレるというのとは違うが、エヴァンゲリオンの主人公のシンジの「自己の存在意義を根底から疑い、悶々と思い悩む」という姿に共感を覚える人が、いまの時代ではむしろ多数派となりつつあると断じても言い過ぎではないだろう。

富野は、こうした世代に夢を与えるべく、カミーユの姿を180度転置させた。彼が嫌っている庵野への批判も込められているのかもしれない。とにかく、映画版のカミーユは前向きである。彼は戦う理由を持っている。軍の横暴の被害者になっているだけでなく、戦いにより家族を奪われている。「エヴァに乗れないんだ」などと無気力になるシンジとは全く異なるし、偶然ガンダムを盗むことになったキラ・ヤマトとも違う。何を目指すのかはまだ自分でもはっきりとわかっていないにしても「体制の横暴」に反発して、オルタナティブを提示しようとしている情熱が感じられる。9.11後の世界に住む人にとっては、こうしたカミーユの心理的推移は、とても必然性があるように見える。「正義」はそんなに単純じゃない、隙のない主張はどこか胡散臭い、でも「あるべき世界」のために、自分は何かをしたいという理想を密かに抱いている。

もちろん、爪を噛む癖は健在だし、戦闘中に訳もなくキレかかることもある。しかし、TV版のカミーユとは違って、映画では彼には何かを為そうという意思が感じられる。彼の周囲に現れるクワトロ・バジーナ(シャア)やアムロも、そうした大きな渦の形成に貢献していく役者のように見える。そういえば、TV版ではかなり「ヘタレ」の批判を受けていたクワトロも、映画では滅茶苦茶格好いい。これこそ、僕らの憧れた冷静沈着なシャアである。作画だけでなく、脚本も変わっている。当然のことながらセリフも撮り直しされていて、後半部分のシャアの登場する場面は、ほとんど新作といえる代物だ。

今回の「星を継ぐもの」は、あくまで3部作の序章であり、2部、3部と進むにつれて今後大きなうねりを伴って、映画版ならではのエンディングへと物語は進んでいくはずだ。そして、力強いメッセージが打ち出されるはずである。それは、9.11後の世界のあり方についての富野なりの回答だろう。

けっして重力に囚われてはならない、というときの「重力」とは既得権の隠喩であると解釈しているのだが、さてZ3部作では何を見せてくれるのだろう。