今日、ついに江國香織の『東京タワー』を体験した。といっても、映画ではなくて*1、単行本を買って読んだのだが。公開中の映画には行かないで、一人ティーザー効果*2。
映画では黒木瞳が演じる人妻の詩史が主役になっているようだが、原作では主人公は大学生の透であり、詩史という女性は彼の内面を写し出す幻影のような存在に見える。彼女自身も抱えているはずの内面の葛藤は、彼女の口から語られることがほとんどない。そういう意味で、小説の現実の中では詩史の存在感は希薄である。というか、現実の中で存在感が希薄であるがゆえに、透の内面における詩史の存在感が肥大化しているのではないかとさえ思える。
一方、透の親友で同じく大学生である耕二については、やはり人妻である喜美子とのカップリングが透と詩史の組み合わせとの対比を成すという部分もなくはないが、原作における事情はより複雑に見える。彼にとって、関わりを持っている女性は、喜美子だけではない。大学生の彼女の由利、高校時代のクラスメイトの吉田など、望むと望まざるとに関わらず、耕二のいろんな部分が複数の女性と結びついている。喜美子とは肉体という部分で繋がっているだけだ。
「対比」という言葉を使うならば、ほぼ全人格をもって詩史という一人の女性と対峙している透の存在と、周囲にいるどの女性とも断片的にしか繋がっていない耕二の存在をこそ、対比されるべきであろう。映画を観た人の感想では、喜美子をして「ギリギリの」という形容詞で語られているのであるが、本来的な意味では透が一番ギリギリなのではでないかと思う。この透のギリギリさを純粋さと呼ぶならば、とても美しく、そしてはかない純粋さではないかと感じる。そしてこれと対比される耕二の存在は、一見複数の女性と繋がっているようでいて、その実誰とも繋がっていないという虚しさ、哀しさを感じさせる。どちらの人物も、思春期の危うさを別々の方法で体現している。
冒頭にも述べたが、透と耕二の内面は語られるものの、他の女性は彼らの目を通して描写されるだけで、彼女達の誰にも感情移入することは困難。その意味で、『東京タワー』は、あくまで、透と耕二という男子学生が主役の青春小説*3なのだ*4。
おまけ。作中で喜美子が乗っている赤のフィアットパンダは凄く好きな車(添付写真)。うるさくてドアがペコペコでよく壊れる(はずだ)けど、ものすごく軽快で、ローマやパリ市街に似合う。もちろん東京にも。これを小粋に乗りこなせる女性は、独身だろうが既婚者だろうが、とってもカッコイイと思う。詩史の家のベンツよりも、断然センスが上(あれ、もしかして、映画では新型になったりしているんだろうか?)
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