「失われた30年」というけれど、僕らは何を失ってきたのだろう−
さて、このところ映画やドラマでの活躍目覚ましい山田杏奈。
彼女が初めての舞台に出演するということで、『夏の砂の上』を観に世田谷パブリックシアターに行ってきた。
少し前の長崎を舞台に、田中圭演じる主人公が少しずつ色々なものを失っていく物語。
いわゆる「中年の危機」的な状況ではあるのだけれども、主人公は飄々としていて、大して抗う姿勢を見せることなく淡々を運命を受け入れていくように見える。
村上春樹の小説群にも通じる諦念があるのだけれども、そこから「破滅」にも「再生」にも至らずに物語が進み、そして閉じていく。
山田杏奈は、そんな主人公の姪を演じる。
中学校を卒業したが、シングルマザーの母親の都合で高校には行かず、そしてこれまた母親の仕事/男性関係のために、叔父の家に居候することになる。
主人公には西田尚美演じる妻がいるのだが、何年も前に子供を事故で亡くしてから二人の間には修復の難しい溝ができていて、別居状態。
そんなわけで、主人公は多感な年頃の姪と奇妙な同居生活を送ることになる。
この複雑な状況の女子を演じるのに山田杏奈は適任にように見えた。
映画やテレビドラマの演技では、言葉を飲み込んでも何かを語りたそうな目がアップになる、というような演出があり、それが彼女の得意な演技の一つでもある。
そういう説得力のある演技が舞台でもできるのだろうかというのが、山田杏奈ウォッチャーにとっての見所であった。
結果的に、舞台ならではの臨場感を活かして、彼女は自分で空気を作り出しながら、難しい年頃の女子の拗れをしっかりと見せてくれる。
母親や叔父、田舎に生きる人たちに対して抱く鬱陶しさや軽蔑。
バイト先の年上の大学生を誘惑し振り回す小悪魔的な奔放さ。
至近距離で見る山田杏奈は、白く透き通るような肌が美しく、また茶色に輝く瞳が神秘的。
雨が降らず、たびたび断水する舞台の長崎は、「潤いのない日々」のメタファーである。
そんな日々がうんざりするくらい続いていくが、終盤、突然の大雨が主人公と姪を襲う。
タライを持って走って雨を集め、乾いた喉に一緒に雨水を流し込むことで喜びを味わう二人。
ここから新しい未来が切り開かれるような光景が一瞬脳裏をよぎる。
だが、心を通い合わせたかのような二人の時間は、母親が迎えに来ることですぐに終わる。
妻も去り、仕事も失い、姪も失い、友人も失い、身体の一部も失い、主人公はもうこれ以上失うものがないところまで行ってしまうように見えて舞台は終わる。
終盤に絵に描いたような破滅が訪れることもなく、逆に一気に希望が拓かれることもない。
主人公は腹の底から笑うこともなく、全身を震わせて泣き叫ぶこともない。
ドラマティックではないと言えばその通り。
そこが妙にリアリティがあるとも言える。
失われた30年。
いや、10年前は「失われた20年」と言っていたのではなかったか。
僕らはいつまで失い続けるのだろう。
−そんなことをぼんやりと考えさせられる舞台だった。