「映画」とは拡張のことである。
「写真」に対しては時間の概念を加えることにより、「演劇」に対しては多面的な観点を導入することにより、より創造性の高い表現を行うことができる。
だが、「映画」はそのような拡張性を持つがゆえに、観客への見せ方を誤ると「散漫な印象」を与えかねないという罠がある。
映画版『キャッツ』は、まさにそのような「罠」にはまった典型的な失敗作になってしまった。
ミュージカルの『キャッツ』は、T・S・エリオットに詩を元に、アンドルー・ロイド・ウェバーが曲を手がけたもので、初演は1980年代ということで、もはやミュージカルとしては「古典」の部類に属するロングラン作品。
そんな古典ではあるものの、「路地裏の猫たちという猥雑さ」「特にストーリーらしいストーリーの欠如」という特徴ゆえ、これまで映画化がされたことはなかった。
だが、昨今のミュージカル映画のヒットを受け、ついに手がつけられてしまったということになる。
監督は2012年の『レ・ミゼラブル』を手がけたトム・フーパー。
俳優には名優や大物シンガーを揃え、最新技術のCGも導入、とあれば、劇場で上演されてきたミュージカルの表現を軽々と越えることが期待される。
が、公開前から賛否両論というか、評論家の罵詈雑言ばかりが聞こえてくる始末。
こうなってくると、むしろ「怖いもの見たさ」で見に行きたくなるというもの。
わざわざ通常の劇場よりも500円高い、IMAXのAV環境を選んで早速鑑賞。
その結果・・・
ミュージカル『キャッツ』を何回か見たことのある僕が、目にこの映画がどう映ったかと言えば、「ミュージカルに遠く及ばない失敗作」。
(以下ネタバレ)
ネットでは、「ネズミとかゴキブリがキモい」とか「話の内容がない」とか「オチが猫は犬と違うってなんだ」という意見も見たが、まあ『キャッツ』とはそもそもそういうもの。
だが、ミュージカルと比べてまず決定的にダメなのが、映画ならではのカメラワークとか照明とかで「迫力」が追加されていないばかりか、それを損なっているように見えること。
役者が一生懸命歌い、踊り、演技をしているのがわかるのだが、それがかえって、制作している人の情熱とかセンスの決定的な足りなさを浮かび上がらせる。
劇場の「ライブ感」がない部分を補う要素が何もない。
手間のかかったであろうCGも、世界観に馴染んでいない。
次に受け入れがたいのは、キャラクターの改変である。
僕の好きな猫でいえば、ラム・タム・タガーのクールなセクシーさは後退し、ガスの往年の演技の迫力の見せ場はほぼなくなり、スキンブルシャンクスの「仕事一筋」な生真面目さはかすみ、ミストフェリーズが持つ天然のかわいさもなくなっていた。
この中では、ガスの昔の栄光の場面を延々と見せるのは、映画的には構成がぐちゃぐちゃになるのでそれも仕方ないが、痩せたロックスターのイメージだったラム・タム・タガーが、ガタイの良いラッパーみたいになっているし、スキンブルシャンクスはタップダンス踊りまくりの小粋な人になってるし、ミストフェリーズに至っては単なるヘタレキャラになっていて、しかもクライマックスの連続ターンもなし。
ミュージカルが好きな人ほど、観たいものが観られないというフラストレーションを感じる仕上がりになっている。
他のキャラも、女性が増えたりとか、黒人が増えたりしていて、昨今の「ポリコレ」を取り入れたものになるのはやむを得ないのかもしれないが、それにしても「そこに愛はあるのか」と問いただしたくなるレベル。
代表曲とも言える「メモリー」をソロで歌って、最後は天上に上っていくグリザベラなんかは、演技も歌も濃厚すぎるくらいに芝居がかっていた。
あれで「お涙ちょうだい」というつもりの演出なのかもしれないけれども、あんなわざとらしいものを見せられたらかえって反発とか猜疑心が先立ちそうなもの、と思ってしまった。
唯一、長老猫のオールド・デュトロノミーが品のあるおばあさんになっていた「改変」だけは良かった、というか、許せた。
ミュージカルとは違う圧巻のフィナーレを見せてくれるかと思いきや、グリザベラの乗るチープな気球を見せたり、マキャヴィティの小物感をオチにしたり、あろうことか、トラファルガー広場のライオン像の所に集合させてポージングさせたりと、映画全体のしょぼさをさらに際立たせていた。
エンドロールが始まって席を立つ人も多数。僕のその中の一人。
自分としては本当に珍しいことのだけれども、どうにもいたたまれない空気から逃げ出したくなったというのが本音。
「名作」でも「カルト的な珍作」でもなく、単にクオリティの低い「失敗作」。
これ観るのなら、ミュージカルを映像にした1998年の映像作品を観た方が幸せになれるよ。
- 出版社/メーカー: ジェネオン・ユニバーサル
- 発売日: 2012/04/13
- メディア: DVD