神様を信じるということ―大田区の3歳児暴行死について思う

東京都大田区で3歳児が亡くなった。母親の交際相手に暴行を受けた結果であると報じられている。

ニュースによると、発熱して「苦しい、ママー、ママー」と訴え、その後容体が悪化したそうだ。

警察の調べによれば、加害者は身長195cm・体重120kg。3歳児を相手に正座させて「かかと落とし」をしたりして、暴行は一時間以上にも及んだという。

このような暴行で命を落とす事件は後を絶たない。今回の事件に限ったことではないが、本当に痛ましい。

暴行を受ける彼の目には、相手の姿はどのように映っただろうか。

自分がなぜそのような目に合わなければならないのかさえ理解できなかっただろう。

「苦しい、ママ―、ママ―」と訴えたとき、彼には世界はどのようなものに見えていたのだろうか。

誰かが自分をこの理不尽な境遇から助けてくれることを訴えた、でも、その訴えは恐らく誰にも届かなかった…



こういう事件の報道に接するたびに、僕はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のイワンのこの言葉を思い出す。

この母親は、よる夜なかきたないところへ閉じ込められた哀れな子供のうめき声を聞きながら、平気で寝ていられるというじゃないか!お前にはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することのできないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけなこぶしを固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、――え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が、説明できるかい、おまえはぼくの親友だ、神につかえる修行僧だ、いったいなんの必要があってこんな不合理がつくり出されたのか?一つ説明してくれないか!
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』第五編)


何の罪もない子どもが『神ちゃま』と祈ったのに、誰も助けてはくれなかった。

まさに「神も仏もあるものか」と嘆きたくなるような状況を見て、僕たちは神様を信じられるだろうか。

同じような境遇にある子供に「神様を信じなさい」などと言えるのだろうか。

亡くなった子供は、最後の瞬間に何を信じていたのだろう。何か信じられるものがあったのだろうか。




僕たち自身も、ここまで極限的ではないにせよ、理不尽な状況に置かれることはある。
そこで何かを信じたくなるけれども、信じようとするものが信じるに値するかどうか、こういう事件を見るに試される気がする。