いつまでも記憶に絡みつく喪失感―村上春樹「女のいない男たち」

ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。
村上春樹「女のいない男たち」)

僕らは失う。失ったものは戻ってこないが、時間の経過とともに、おそらく喪失感は薄れていく。とてもゆっくりと。ときに突然ぶり返すにしても。

だが、喪失感はどんなに薄まったとしても、ミネラルウオーターの入ったグラスに落としてしまったレモンのスライスのように、けっして消えることはない。それは分子のレベルで分かちがたく混ざり合ってしまっている物質のように、いつまでも僕らの記憶に絡みつく―

村上春樹の最新刊「女のいない男たち」は、月刊「文藝春秋」などに掲載された短編に、表題の書下ろしを加えた短編集。表題の元ネタは言わずと知れたヘミングウェイだが、直接の関係はない。

また、掲載作は、「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタデイ」という2編から始まるが、必ずしもビートルズオマージュというわけではない。いずれも日常の中に潜む喪失を描いている。

続く「独立器官」は、主人公の医師が中年になって初めて真剣な恋に落ち…という哀しいガチ恋の末路を描いたストーリーで、個人的には最も世界観が響いてくる作品。

シェエラザード」、「木野」は、「1Q84」や「海辺のカフカ」などの村上春樹の長編の世界と通じる謎めいた世界。夢と現実が交錯する中で不思議な啓示を受けるような感覚にくらくらする。真理とは、必ずしも論理の積み重ねによって得られるわけではない、ということだろうか。

最後の「女のいない男たち」は、ごくごく短いが、隠喩に満ちた春樹節を堪能することができる。何度も読んで、そのときどきで響いてくるフレーズを探したくなる逸品。

村上春樹は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」などの長編が読み応えがあって好きだけれども、最近の長編は「構造」とか「寓話」とかいろいろなことを意識してしまって純粋に楽しめなくなってきていた(これは主として読み手である僕の方の問題なんだろうと思う)。

が、短編に関しては古いものも新しいものもともに幻想的な世界観をストレートに見せてくれるので良いと思う。村上春樹の短編集にハズレなし、と改めて思った。

女のいない男たち

女のいない男たち