君が望む平凡〜『涼宮ハルヒの消失』

なあ、長門。おまえは、なんだって『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』なんかを夢中になって読んでいるんだ。二つの世界が交錯する村上春樹の傑作だよな、それ。

じゃあ、長門。教えてくれ。いま俺たちがいるのは「世界の終わり」なのか、それとも「ハードボイルド・ワンダーランド」なのか。まあ、そんなことはどっちでもいいか。そんなことより、おれが本当に知りたいのは―

映画『涼宮ハルヒの消失』を観た。以下ネタバレ。

最初はTVアニメの雰囲気そのもので、オープニングもアニメ一期のもの。良くも悪くもTV版ハルヒ。安心できるマンネリズム。一体どこが劇場版クオリティなんだよ、と。だが、ある時点から、ちょうど朝倉が登場するあたりから様相が一変する。なんだろう、この違和感。この居心地の悪さ。

それこそ、この『消失』の本質。そう、だから、この演出は原作に忠実だ。「涼宮ハルヒ」の消えた世界は、ある意味平和で、でもどこか陰気で、そして決定的に退屈だ。ハルヒは学校を見渡してもいないし、SOS団の集まっていたはずの部屋は名実ともに文芸部の部室になっている。そのに長門はいるが、眼鏡をかけていて、内気だが感情をもった普通の女の子だ。そして村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の単行本を読んでいる。みくるはキョンと何の接点もない。そして、ほかのSOS団の団員も。あたかも、SOS団ハルヒもなかったかのように。

この世界を望んだのは誰か。それはもちろんハルヒではない。それは統合思念体。つまり長門。彼女が望んだのは、退屈だけど、安心できる日常。そうこの世界は君が望む平凡そのものだ。

普通の女の子になる前の長門が残した手掛かりをもとに、キョンは元の世界に戻る方法を見つける。世界の選択肢は彼の手の中に握られている。キョンは考える。自分が生きたい世界はどちらなんだろう。「ハルヒ」のいる世界に戻るのか、それとも「ハルヒ」に振り回されない世界に残るのか。ここでのキョンは、もう「巻き込まれキャラ」ではない。主体的に世界を選び取る主人公だ。まるで『ヱヴァンゲリヲン・新劇場版』のシンジのように、明確な意思を持って世界にコミットする存在。キョンが自らの選択を自問自答するドッペルゲンガーのような姿こそ、この映画の最大の見せ場だろう。もちろん、最後にキョンと長門が屋上で会話をする場面の美しさや、朝倉がヤンデレになる場面の迫力は「さすが京アニ」という出来栄え。

2時間40分という長さはTVアニメであれば8話分に相当する尺で、内容の充実も相当のもの。平日昼の映画館が満席になるのもうなずける。「ハルヒ」好きなら、TVアニメでしか知らないライトファンも、原作を読み込んでいるコアなマニアも、いずれも満足できる完成度。

ああ、それにしても、長門せつないよ長門。映画館を出て、スタバでパンフレットを読んでいたのだが、茅原実里のコメントのところで一気に泣いた。エンディングの『優しい忘却』の歌詞を思い出して泣いた。彼女が望んだ世界を思って泣いた。ああ、長門の声優が茅原実里でよかった、本当に。

優しい忘却

優しい忘却