『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(完)

前回(『まどマギ』考察序論―ゲーム的リアリズムの観点から(2) - Sharpのアンシャープ日記)より続く。

魔法少女まどか☆マギカ』は、これまでのループものとはどこが違ったのか。

ひぐらしのなく頃に』や『涼宮ハルヒの憂鬱エンドレスエイト』は、ループを繰り返すことで、脱出の成功条件を見つけ出し、場合によっては関係者が協力することで脱出を実現するというパターンだった。桜坂洋の小説『ALL YOU NEED IS KILL』も同じだろう。ゲーム的表現を借りれば「BAD ENDを重ねることで初めてGOOD ENDのフラグを立てることができる」というべきか。

しかし、『まどマギ』のループは、そうではない。

  • ほむらが何度ループを繰り返しても、どうやらBAD ENDしかない。
  • まどかのためにループを重ねることで、まどかのエネルギーが異常に高まり魔女化のポテンシャルを高めている。
  • かといって、ループを止めると、まどかだけでなく、ほむら自身も絶望により魔女化する。

ということで、ループしていたほむら自身ものっぴきならない状況に追い込まれていた。進むも地獄、引くも地獄。これは、「ループしてもBAD ENDしかない」という『仮面ライダー龍騎』よりもずっと過酷なシチュエーションだ。

まどかはこの状況からほむらを救い出す。「すべての魔女を生まれる前に消し去りたい!」と願うことによって。過去の因果律に影響を与えられるのは、まどかが異常にエネルギーを蓄えたからだ。

では、ほむらは本当に救われたのか。確かに彼女はループから脱出できた。だが、それと引き換えに、まどかは魔法少女になってしまった。これを避けるためにループを繰り返してきたのに。それどころか、まどか自身、この宇宙から消えてしまうというのに。

だが、ほむらは救われたと言える。彼女はこう願って魔法少女になったのではないか。「彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」と。ほむらは十分にまどかを守った。何度も何度も。そして、そのことは最終的にまどかに理解されたのだ。まどかはほむらを抱きしめてこう言う。「あなたはわたしの、最高の友達だったんだね」と。

<ループを止めた人(まどか)>は、<ループさせていた人(ほむら)>を理解し、自己を犠牲にしてシステムを無効にすることによって新しい世界を創り出した。この構造にこそ『まどマギ』の独創性があり、まどかがほむらを受容したところに感動が生まれるのだ。

ということで、『まど☆マギ』は「ループもの」の要素を取り入れてはいるものの、最後の最後で「答はループの外にあるんだよ」というメッセージを打ち出した。この点で「脱ループもの」であるとも言える。

このメッセージは「ゲーヲタ(あるいはアニヲタ)よ、ループを捨てよ町へ出よう」と受け止めるべきなんだろうか。いや、分岐のある限り、ループを捨てることなんてできそうもない。実際のところどうなんだろう。この答を求めて、今度は『シュタインズ・ゲート』でもプレイしてみようか。

(完)