異文化との言語ゲーム〜『エデン』

ソラリス』『砂漠の惑星』とともにスタニスワフ・レムの三部作を構成する作品。

エデン (ハヤカワ文庫SF)

エデン (ハヤカワ文庫SF)

宇宙を航行中に謎の惑星に不時着したクルー(技師、物理学者、化学者、サイバネティシスト、ドクター、コーディネーター)が惑星を探検し、不思議な光景を目撃したり、危機に直面したり…と、いまとなっては「アドベンチャーSF」とでも呼びたくなるくらい古臭い設定。だが、根底にある問題意識はいまでも陳腐化していない。

たとえば、以下の文章は9.11以後はひときわ輝いて見える。レムのいたポーランドが当時ソ連の強い影響下にあったことからすると、これは想像力の産物というよりも、現実への皮肉だったのだろう。

どこかの高度に発達した種族が、数百年前、宗教戦争の時代の地球にやってきて、紛争に介入しようとした……弱者の側についてだ……と考えてみたまえ。その強大な力をもとに、異端者の火あぶりや異教徒迫害等々を禁じたとしよう。彼らの合理主義を地球上に普及させることができたと思うかね。当時の人類はほとんど全員が信仰を持っていたのじゃないかね。その宇宙から来た種族は、人類を最後のひとりになるまで、つぎつぎと殺さなくてはならなくなるにちがいない。そして彼らだけが、その合理主義の理想とともに残るということになるだろうね。

また、異星であるエデンではなく、アフガニスタンやイラクについて描かれたのではないかという部分。

やれやれ、援助とは一体どういうことかね。ここで起きていること、ここでわれわれが目にしていることは、一定の社会構造の所産なんだ。それを打破して、新しい、より良い構造を作り出すことが必要になってくるんだ……それをわれわれがどうやろうと言うのかね。われわれとは異なる生理や心理、歴史をもった生物じゃないかね。われわれの文明のモデルをここで実現させることなどできはしないよ。

そして、そのものずばり「テロ」という単語。

きみたちが、高邁な精神に駆られて、ここに“秩序”を確立しようなどと考えるようになるのが恐かったのさ。それを実行に移せば、テロを意味することになるからね。

最終的に、クルーは異星人とのコンタクトに成功するが、そこで行われる言語ゲームは必ずしも地球の流儀が通用するわけではない(まあ、地球を一括りにしてしまうのもどうかという観点ももちろんあるがそこは一旦置いておいて)。SFというよりも「正義」「進歩」「援助」をめぐるある種の寓話として読むべき作品だと思う。レムという知性の関心の対象が科学というジャンルに留まらず、社会や政治というものにも向かっていたということを感じさせる佳作。