人間は人間を作れるのか〜『鋼の錬金術師』感

表題は、『鋼の錬金術師』を読んで思ったこと。

鋼の錬金術師(14) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師(14) (ガンガンコミックス)

PLUTO』のアトムも、『GUNSLINGER GIRL』のヘンリエッタも、『エヴァンゲリオン』の綾波も、人間に極めて近い存在であるが、人間ではない。彼/彼女らは、「ほとんど人間」なのだ。ロボットと呼ぼうが、義体と呼ぼうが、ダミーと呼ぼうが(あるいは「クローン人間」と呼ぼうが)、それは人間ではない。

では、「ほとんど人間」と「人間」を決定的に分かつものは何なんだろう。普通に考えれば、それは「魂」だ。しかし、『鋼の錬金術師』では、錬金術で人間を再生しようとした兄弟の弟、アルフォンスは「魂」のみを持つ存在になってしまう。彼は物理的には「鎧」をもってこの世界に存在している。そして、他の「ほとんど人間」と同様、アイデンティティが揺さぶられる瞬間がある、つまり、「自分が記憶を操作されているのではないか」という疑いを持ったりもする*1

私自身も思春期の頃には「自分が本当に存在するのか」とか「誰かのコピーではないのか」とかSF的なことを考えたりしたのだが、それを否定することはできない。結局、まあこうして生きている以上存在もするだろうし、コピー人間というのが世の中に流布していない以上、自分もコピー人間ではないだろうとか、その程度のあいまいさでなんとか納得しているだけだ。デカルトの厳密な証明のように「コギト・エルゴ・スム」などと突き詰めた論考を行っているわけではないし、カントの「不可知」という領域にも入っていない。それでも、自分が存在するということは直感的には分かる。それで、なんとかアイデンティティを保っている。私以外の多数の人も同様だろう。

で、もし人間が人間を作れるようになってしまったらどうなるのか*2。宗教的な「尊厳」とか何とかとは関係なく、それは結果的に自分のアイデンティティの危機をもたらし、人間(個人)の存在意義を著しく軽くしてしまうんだろうと思う。

だから…結局、人間は人間を作れないだろう。いや、これも厳密な議論ではなく、あくまで直感。

*1:しかし、そのような危機は「兄弟の絆」で乗り超えられる

*2:もちろんここでは「生殖」は考慮の外とするが、主要な登場人物が出産の手助けをするエピソードが語られているのが将来の複線になっているような気がする