追体験したかったのかもしれない〜『1917 命をかけた伝令』(サム・メンデス監督、2019年、英米)

サム・メンデスは僕の大好きな監督の一人。

現代アメリカ社会の病理と、中年男性のミドルクライシスを同時に描いたデビュー作の『アメリカン・ビューティー』(1999年)でいきなりアカデミー賞監督賞を受賞し、イギリス王室からは大英帝国勲章を受章。

10年代に入ってからは『007 スペクター』と『007 スカイフォール』で続けてメガフォンを取り、自らのルーツであるイギリスのフレーバーをふんだんに感じさせながらも、アメリカのマーケットにも大いに受け入れられる作品を生み出す監督となった。

そんなサム・メンデス監督が今回手がけたのは、英米合作の『1917 命をかけた伝令』である。

サム・メンデスは、第一次世界大戦西部戦線の伝令を努めた祖父から聞いた話を元に、この作品で製作・脚本・監督を務めた。

製作・脚本・監督の3つに名を連ねるというのは、彼にとっては初めての作品となったわけだが、その結果はどうか。

f:id:SHARP:20200217145351j:plain

舞台は、1917年のヨーロッパ大陸。ドイツ軍と連合軍の攻防の中で仕掛けられた「罠」を回避するために、若い伝令が最前線まで出向くという極めてシンプルなプロット。

その主人公にべったりとはりつくかのようにカメラは、後方の作戦本部から山を越え、川を越えて移動していく。

まるで、自分が一緒に戦場を巡っていくかのように。

“全編ワンカット”を謳ってはいるが、ワンカット撮影の古典であるヒッチコックの『ロープ』とは異なり、映画の上映時間よりも長い時間が流れるし、粗探しをするまでもなく「編集」の場面を見つけることもできる。

だが、ドローンによる空撮や、CGによる合成、あるいは複数場面・複数時間を組み合わせることが当たり前になった今の映画政策において、「シンプル・イズ・ベスト」と言わんばかりの”ワンカット”が、尋常でない緊張感・臨場感をもたらしている。

サム・メンデスは、この作品をドキュメンタリー的に見せたかったのだろうし、祖父が伝令を務めた西部戦線を自らの手で追体験したかったのかもしれない。

コリン・ファースベネディクト・カンバーバッチらの英国を代表する大物俳優も強烈な印象を残すが、最初から最後までスクリーンに映りっぱなしの主人公を務めたジョージ・マッケイの誠実な振る舞いに強烈な「英国魂」を感じた。

1917-movie.jp

それぞれの格差社会の生き方〜『パラサイト』『ジョーカー』『万引き家族』

r>g
(トーマス・ピケティ『21世紀の資本』)

「r>g」は、資本のリターンが経済成長率を上回ることを示す不等式で、トーマス・ピケティが『21世紀の資本』の中で示したものだ。

いわゆる資本家はさらに富を増やす、ということは、時間が経てば経つほどに貧富の差が拡大することを意味する。

この貧富の差が縮まるとすれば、革命や戦争(敗戦)やハイパーインフレのようなハードクラッシュもあるだろうし、20世紀的な社会福祉政策・再配分政策・寄付などのソフトなビルトインのものもあるだろう。

1989年にソ連が消滅し、いわゆる共産主義の”脅威”が遠のいて以降、西側では”ネオリベ”と呼ばれる新自由主義市場原理主義が台頭してきた。まるで、何かの抑圧から一気に解き放たれたかのように・・・

2018年から19年にかけて公開された『パラサイト』『ジョーカー』『万引き家族』は、いずれも貧富の差の拡大する韓国・アメリカ・日本で公開され、大衆の支持を得るばかりか、評論家筋の評価をも得た作品となった。


(以下ネタバレあり)


韓国の『パラサイト』は、貧富の差をユーモア混じりに描きながらも、その中で最適に生きるのはどうするのが良いのかという貧困層のたくましさを描いた。一方で、経済階級の逆転はきわめて困難であると認識をエンディングで示した。

富裕層の傲慢さや無知に対する皮肉もあるが、そうした描写は「ポリティカルコレクトネス」の発露として挿入されているように思える。

「成金は良くないよねえ」というのは、エスタブリッシュメントの側の適度な「心の痛み」に共感するべく巧妙にその手の描写が埋め込まれていて、この映画に韓国の大財閥のサポートが入っていることを思えば、ある種の「アリバイ作り」「偽善」のようにさえ思える。

貧困層が、革命も暴動も起こせないほどに無力化した韓国の状況を反映しているではないだろうか。




日本の『万引き家族』が描いたのは、犯罪で生計を立てるしかない偽の家族の姿だ。

映画のエンディングでは犯罪者は警察に捕まるのだが、そのきっかけは年端の行かない子供の「犯罪から離れて生きたい」ゆえの行動だっが。だが、彼がこの先更正して生きていけるのかどうかは映画では描写しない。

心の動きとしては理解できるが、それを実現し続けていけるだけの社会環境があるのか、働きかけていくのかどうか実際には疑わしい。だが、この映画はそこまで切り込むことはしない。いかにも日本だ。


この中では『ジョーカー』は、最も行動的である。

貧富の差に苦しめられ、真っ当に生きることさえままならない主人公。そんな彼は、エスタブリッシュの象徴であるエリートビジネスマンや、TVの大物キャスターを射殺する。

そうした行動は社会の中の「不満を持つ階層」から熱狂的な指示を受ける。

体制転覆とまではいかないかもしれないが、少なくとも「貧富の差」に甘んじ続けることはないぞというファイティングポーズで映画は終わる。

「環境を変えるために自らが主体的に行動する」という点では、

「扇動的で危険すぎる作品」ということで、アカデミー賞レースの中では芳しくない結果に止まってしまった。



「貧富の差」の中で、サバイブする手段を合理的に追求する韓国。

「貧富の差」の中で、「自分らしさ」という内面の実現を優先する日本。

「貧富の差」の中で、力(銃)を武器に立ち上がるアメリカ。



大雑把すぎる括りであるが、それぞれの作品はそれぞれの国の歴史や国民性を反映しているように見える・・・




「r>g」の法則が示すのは、今もなお貧富の差が拡大しているということだ。

となると、2020年代にはますます多くの「貧富の差」にまつわる作品が作られ、ますます支持されていくのかもしれない。

そのような映画を「現代社会の矛盾を風刺している」と余裕混じりに受けとめられる層と、「これは自分たちそのものだ。万国の貧困者よ団結しよう」とアジテートされる層と、そもそもそんな映画を見ることも許されないくらいの貧困者と、ますます「階級」が分離していくのかもしれない。


『パラサイト』がアカデミー作品賞・監督賞を受賞し、「韓国映画凄い」ブームに湧く2020年の日本の中にいて、そんな未来を予感せざるをえなかった

モトーラ世理奈の存在感が印象的〜『風の電話』(監督・諏訪敦彦、2020年、日本)

『風の電話』を観てきた。



www.kazenodenwa.com

東日本大震災で家族を失った少女が広島から岩手までを旅するロードムービー

遠く離れた親戚に引き取られていて、友人らしい友人もいなくて、周囲に心を閉ざして言葉少ない主人公が、故郷に向かう道の中で色々な人たちと出会い、時に心を通わせながら、自己を再発見して、恢復していく物語。

寡黙な彼女が、自宅の跡地で感情を爆発させたり、岩手の「風の電話」のボックスの中で「家族にしか言えない」内面を吐露する独白が圧巻。

ファッション/サブカル寄りイメージの強いモトーラ世理奈が、スクリーンで本格女優の片鱗を見せた。

脇を固める三浦正和、西島秀俊西田敏行らの超ベテラン俳優にも食われない「存在感」が強く印象に残る。

映画の作りとしては、時に平板であったり、トルコ人を探す謎のエピソードが挟まれたりと、とても洗練されているとは言い難いものの、モトーラ世理奈の魅力で引っ張っている作品と言っても過言ではない。

もっと別の作品で、色々な役を見せて欲しいと願わずにはいられない。

f:id:SHARP:20200205175712j:plain