ハコイリ♡ムスメ水曜定期公演「Season in the Box~ムスメたちが駆け抜けた季節~」(2014年秋冬)@ AKIBAカルチャーズ劇場

2014年のAKIBAカルチャーズ劇場の新人公演、僕が応援していたのは、アイドルネッサンスでもハコイリ♡ムスメでもなく、mImi(現パクスプエラ)だった。 

そんな僕が「ハコイリ♡ムスメをもっと見たい」と思ったきっかけは、2014年秋冬公演のカバー曲、中でも、この劇団ハコムス「日曜はダメよ」のカバーだった。


劇団ハコイリムスメ『日曜はダメよ』(内山珠希・鉄戸美桜)

タータンチェックのワンピース、演劇とライブの融合、そして小西康陽の名曲を選ぶカバーのセンス…

今でも何度も見てしまう。

今日の「Season in the Box」は、そんな2014年秋冬の公演を振り返る公演。

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3期・4期生はもちろん、2015年に加入した阿部かれんもいない時期。

当日のメンバーでは、我妻桃実と鉄戸美桜のみが残っている。

活動自体が試行錯誤で、いつまで続くかも分からないという中で、この時期の選曲がその後のハコムスの方向性を決めたことは想像に難くない(運営の中での乙女塾派とおニャン子派のせめぎあいの形跡も含めて)。

鉄戸美桜がハコムスのカバー曲の中で一番好きだという「なぜ?」でクールに始まる。

現体制でのパフォーマンスはとても息が合っていて、このメンバーでなら7月のワンマンもきっと成功すると思わされる。

自己紹介に続いて、当時のハコムスの代表曲の一つ「真っ赤な自転車」(おニャン子クラブ)、そして「Snow celebration」(アイドリング!!!)。

企画「想い出のアルバム」では、我妻・鉄戸コンビの昔話が盛り上がる盛り上がる。

小松さんの話はどうやっても面白いし、先日解散したアイドルネッサンスのメンバーとは「ハコルネ」というライングループがあって、という裏話も聞けた。

ここからユニット曲。

最初は「日曜はダメよ」(三浦理恵子)で、これは鉄戸・吉田ペア。

当時の内山のパートを吉田が担うもので、甘えたようなツンデレボーカルや、バレエの動きを取り入れた振り付けも完璧。

鉄戸の歌い方も当時を再現したということで、初々しさに満ちていた。

個人的には夢の共演で、今日のベストアクト。

続いては、「パジャマでドライブ」(Qlair)のカバーで、これは阿部・星・寺島というちょっと大人っぽい組。

阿部・星はさすがの表現力だったけれども、そこに最年少の寺島が入って全く違和感がなかった。ワカチコ器用だな。。

最後は、「星座占いで瞳を閉じて」(おニャン子クラブ)。

これは、我妻・神岡のコンビで何度も聞いた楽しい曲だけど、神岡パートをしっかりと井上が担っていて、しかも独特の面白い味まで出していて脱帽ものだった。

当時の7人編成のハコムスのユニット曲を再現したので、頭数的には今日は塩野虹の参加はなかった。が、次回以降劇団ハコムスに意欲を示していたなーちゃんだけに、また何かやってくれるだろう。

MCの後、卒業ソングの「はじまり」(チェキッ娘)、そして「Be My Diamond! 」(ribbon)。

この怒涛の流れはさすがハコムスという感じだった。

2014年秋冬衣装での「Be My Diamond!」にはちょっとトラウマめいた思い出があることは否めないのだけれど、我妻桃実の力強いパフォーマンスが、そんな思いを吹き飛ばしてくれた。

ありがとう、ぽにょ。


終演後は、握手と撮影へ。

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まずは吉田万葉ちゃん。

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このグリーンの衣装、最高に似合うね。

そして、鉄戸美桜ちゃん。

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当時とは髪型は変わったけれども、この衣装を着ているとあの頃を思い出す。

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卒業まであと2週間、ここAKIBAカルチャーズでの公演は残り2回。

今日の公演もとても楽しんでいる様子で、歌でもMCでも無敵感出てて、見ている方も楽しかった

(セットリスト)

1 なぜ?/CoCo
MC
2 真っ赤な自転車/おニャン子クラブ
3 Snow celebration/アイドリング!!!
企画「想い出のアルバム」
4 日曜はダメよ/三浦理恵子(鉄戸・吉田)
5 パジャマでドライブ/Qlair(阿部・星・寺島)
6 星座占いで瞳を閉じて/おニャン子クラブ(我妻・井上)
MC
7 はじまり/チェキッ娘
8 Be My Diamond! /ribbon

水の中こそまことー「シェイプ・オブ・ウォーター」(2017年、アメリカ)

「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」
江戸川乱歩


ヲタクはロマンチストである。ソースは俺。



…ということで、「パシフィック・リム」を世に出したヲタク監督のギレルモ・デル・トロ


sharp.hatenablog.com

ヲタクならギレルモ嫌いな人はいないよな。

そんな彼の最新作は、半魚人と人間のロマンスを描いた純愛作品「シェイプ・オブ・ウォーター」。


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ギレルモのロマンチストの面が全面に出た佳作だが、アカデミー賞で作品賞・監督賞など4賞を受賞という快挙。

これは、ギレルモ好きには喜ばしい限り。

まず、本作のアカデミー賞受賞に関して言えば、受賞には二つの追い風が吹いたと考えている。

一つ目は、反トランプ。

彼の「メキシコとの国境に壁を作る」という公約への反発が、アマゾン出身の半魚人や、メキシコ出身のギレルモを「立てる」方向に働いたことは想像に難くない。

そして、ギレルモ自身も、多様性の受容を肯定的に描くシーンを本作でも多く取り入れている。

二つ目は、#MeToo に象徴されるパワハラ・セクハラ的なマッチョ主義への反動。

固有名詞は出さないが、著名な女優が歴代の大物映画人を続々と告発していく中で、ギレルモモのようなヲタク気質の監督の評価が相対的に高まった面はある。

たとえば、10年前ならこの作品がアカデミー賞作品賞を受賞するのは想像できなかったと思う。

そう考えると、時代の追い風を最大限に受けたとは言えるだろう。

さて、アカデミー賞での受賞背景の分析はこの辺にして、肝心の作品の内容についても語りたい。




『シェイプ・オブ・ウォーター』日本版予告編

公開されているあらすじは以下の通り。

1962年、アメリカとソビエトの冷戦時代、清掃員として政府の極秘研究所に勤めるイライザ(サリー・ホーキンス)は孤独な生活を送っていた。だが、同僚のゼルダオクタヴィア・スペンサー)と一緒に極秘の実験を見てしまったことで、彼女の生活は一変する。 人間ではない不思議な生き物との言葉を超えた愛。それを支える優しい隣人らの助けを借りてイライザと“彼”の愛はどこへ向かうのか……。

ギレルモの2007年の作品「パンズ・ラビリンス」とは時代と舞台の違いこそあれ、共通項も多い。

sharp.hatenablog.com




(以下ネタバレあり)

ヒロインは少女ではなく中年の女性。

発声に障害があり、少数の友人を除いて現実世界からはやや孤立した存在になっている。

清掃員の仕事で偶然に「半魚人」の存在を知り、機会を重ねることで彼に興味を持ち、心を通わせ、脱出計画に加担する(むしろ首謀するというべきか)。

水の中の世界は「彼岸」であり、厳しい現実から逃れる先として現れる。

半魚人にとっても、ヒロインにとっても。

その「彼岸」は、映画のクライマックスに向けて、小さなバスタブの中から、浴室、雨の街、そして水かさの増した川へとスケールアップしていく。


米ソの対立という時代背景の中でどんどん追い込まれた二人は、最終的には水の中の世界で結ばれる。

このエンディングの解釈は多様で、半魚人の持つ超自然の力が彼女の負った致命傷を治癒したとか、もともと彼女自身が人間ではなく半魚人だったとか、あるいはあのエンディング自体が一つの可能性としての想像の産物にすぎないなど。

ちなみに、僕の解釈は「別の世界に行った」というもの。

乱歩が「夜の夢こそまこと」と言ったのになぞらえて言えば、「水の中こそまこと」というわけだ。


劇中では、古きよき時代の象徴として、レコードでのジャズ音楽を流す場面や、劇場での映画を上映する場面が効果的に使われている。

ともすると分断がテーマになりがちな世界において、音楽や映画による「絆」を取り戻そうとするギルレモのこだわりが感じられる場面。


半魚人とヒロインが「結ばれる」のも衝撃的だったが、水滴が溶け合うところにシャンソンが流れるという隠喩的な描写に止めたあたりに、ギレルモのロマンチストな面を感じた。

個人的に一番インパクトがあったのは、声を失ったヒロインが彼女の夢想の中でミュージカルの主演女優のように歌って踊る場面。

人は誰もが物語の主人公でいたいという願望をストレートに描いていた。



さて、僕が主役になれる「まこと」の場所はどこだろう、というようなことを考えさせられた。

青春論あるいはアイドルネッサンスの解散

親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
坂口安吾堕落論」)

2018年2月24日、アイドルネッサンスが解散した。

僕はそのラストライブの光景を、カナダのトロントのホテルの部屋からSHOWROOMで観ていた。

視聴者は一万を超え、二万を超え、最終的には二万五千を超えた。

日本武道館を複数回埋められるほどの視聴者数。

アイドルネッサンスの最後のライブが多くの人の関心を集めるのは僕には必然のように思われた。

2014年から2018年、アイドルネッサンスの活動期間はわずか4年弱。

アメリカの映画界で「青春」の象徴ともなっているジェームズ・ディーンが俳優として活動していた期間とほぼ同じ。

彼が突然の死により伝説となり、その存在を永遠のものとしたように、後世になれば、アイドルネッサンスの活動と突然の解散は、同じような残像を持って多くの人の心に刻まれるかもしれない。

彼女たちは、みずみずしいつぼみとして僕らの前に姿を現し、美しくも力強い花を咲かせ、そして惜しまれながら散っていった。

それは春の桜のようでもあり、しばしば桜に象徴されるような青春時代のようでもあり、あるいは限りある人の生そのもののようだった。

甘い時間も、辛い時間も、心が触れ合う喜びも、離れていく悲しみも、全てがそこにあった。



そんな「全て」を表現するために、少女たちは青春を捧げ、身を削るように音楽に向かい合った。

アイドルネッサンスのステージは、音楽の快楽に満ちていると同時に、どこか求道者のような険しさを感じさせる面があったのは、そのせいかもしれない。

イムリミットのある中で区間新記録を更新することを求めるような、あるいは、地球の重力の檻から脱出するための、宇宙速度を求めるような、ストイックな雰囲気が常にあった。

丸刈り高校野球部員がひたすら甲子園で優勝するのを目指すのと同じく、純白の衣装のアイドルネッサンスは「ブレイクスルー」を目指した。

結局、その夢は叶わなかった。

しかし、その活動には大いに意味があった。

自らの青春を捧げたメンバーの「名曲ルネッサンス」の活動は、見るものの多くを感動させた。もしかしたら、「青春時代を呼び起こさせた」と言えるかもしれない。

AKIBAカルチャーズ劇場の新人公演での優勝、定期公演のソールドアウト、T-Paletteレーベルへの所属、メンバーの卒業と新メンバーの追加、バンドセットワンマン、オリジナル曲のリリース・・・

アイドルネッサンスの活動には常に<挑戦>があり、次から次へと<物語>が生まれていった。

その連続であった、といっても過言ではない。

自らの青春時代にそのようなドラマを持っていない僕にとっては、常に眩しく映っていた。

今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過してしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当らぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今も尚なお青春、恐らく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは決して気持のいいものではない。気負って言えば、文学の精神は永遠に青春であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏のように唸うなったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもない。生れて三十七年、のんべんだらりとどこにも区切りが見当らぬとは、ひどく悲しい。生れて七十年、どこにも区切りが見当らぬ、となっては、之これは又助からぬ気持であろう。
坂口安吾「青春論」)

坂口安吾の言葉を借りれば、青春を全うしなかった僕のような存在が抱える「助からぬ気持」を救ってくれる存在でもあった。


アイドルネッサンスは青春を全うし、そして青春を終えていった。

もちろん、メンバーはまだ若く、それぞれの道で違った「青春」を続けていくことになるだろう。

僕らは、どこかで全く違う形でそんなメンバーからまた別の「救い」をもらうかもしれない。

だが、それはまた別の話。

今は、アイドルネッサンスという存在が捧げた青春に感謝し、その活動を心から肯定したい。

ありがとうアイドルネッサンス。ありがとうテリー。

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