古くなっていない―『砂の女』安部公房

カフカ的悪夢、という言葉があると思う。「と思う」と書いたのはGoogleで検索すると、自分の過去のブログ記事が上位に上がってくるからで、あまり市民権を得ていないのかもしれないと思うからだ。

この『砂の女』も、カフカ的悪夢を描いた作品と言えなくもない。だが、安部公房の筆は、カフカのような不条理さを前面に出したものではなく、どちらかといえば、理知的に状況を分析しているように見える。カフカ的世界ではあるが、カフカとは違った、どこか冷徹な眼差しで、世界を観察していると言ってもよい。

主人公は砂の中に絡め取られる。そこでは外の世界に出る自由はなく、与えられた住居に暮らして、ひたすら砂掻きをすることが求められる。寓話として解釈するまでもなく、これは現在社会に生きる僕たちの姿そのものだ。逃げ場所はない。でも、生きるしかない。

脱出への希望は、何度も失敗することを重ねて、やがて諦念へと変わる。さらに言えば、「酸っぱいぶどう」の合理化を経て、この境遇にも意義を見出してしまう。その気になればいつでも脱出できる、という言い訳付きで。この辺の観察力は実に鋭い。


安部公房が描いているのは、社会の不条理、そこで生きる個人の疎外である。こんなに普遍性の高いテーマは他になかなかなく、海外でも人気を博しているのは頷ける(ノーベル賞も獲得寸前まで行ったらしい)。いま読んでも、決して古くない。


時代を越えて残る作品であることは間違いない。高校生くらいの時に読んでいたら、もっと印象深かっただろう。安部公房の他の作品にも俄然興味が出てきた。そのうちにもう何冊か読んでみようと思う。

砂の女 (新潮文庫)

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