読みやすくはなったが〜『1984年』(高橋和久訳)

ハヤカワepi文庫として刊行された『1984年』の新訳版を読んだ。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

2009年7月25日初版。村上春樹の『1Q84』がベストセラーになってすぐのタイミング。だから、この本のセールスにも多かれ少なかれ「ハルキ効果」が寄与しているかもしれない。だが、『1Q84』を読んでいようがそうでなかろうが、これは読むべき作品だと思う。

旧訳の感想は、8月4日付のエントリー(2009-08-04 - Sharpのアンシャープ日記)に書いている。ストーリーはもちろん変わっていないが、新訳は相当読みやすくなった。

だが、読みやすくなった反面、旧訳の持っていた味わいや格調は薄れてしまった。新刊になって活字が大きく現代的になったのはよいが、訳文まで変える必要があったのかは疑問に思う。一箇所、主人公が不気味な恐怖の予兆を感じる部分を抜粋してみる。

まず新訳。

「101号室には何があるのですか?」
オブライエンの表情に変化はなかった。彼は素っ気なく答えた―
「101号室に何があるか、君は知っているよ、ウィンストン。101号室に何があるかは誰だって知っている」
彼は白衣の男に一本指を立てて合図した。どうやら尋問が終わったらしい。ウィンストンの腕に注射針が刺さった。またたく間に彼は深い眠りに落ちた。
高橋和久訳)

続いて旧訳。

「101号室には何があるのですか」
オブライエンの表情はいささかも変わらなかった。彼は冷ややかに答えた。
「101号室に何があるか、君はちゃんと知っている筈だよ、ウィンストン。101号室に何があるか知らないものは一人もいない」
彼は白衣の男に指先で合図した。どうやら尋問が終わったようである。ウィンストンの片腕に注射針が刺し込まれた。それと殆ど同時に、彼は深い眠りに落ちて行った。
新庄哲夫訳)

どうだろう。好みの問題もあるのだろうが、新訳の方がすっきりとしている反面、張り詰めた雰囲気が緩んでいるように感じる。この場面だけでなく、この作品全体を通じてそういう印象が残った。

新訳本では、トマス・ピンチョンによる充実した解説が掲載されている。20世紀後半の世界を予想した文学作品を、実際に20世紀後半を生きた文学者が語るのは意義深い。ピンチョンのファンでなくても、この解説を読む価値はあると思う。だが、個人的には絶版となった旧約の方が好みだ。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)