『マン・オブ・スティール』―アメリカの国威発揚映画

『マン・オブ・スティール』はクリストファー・ノーランザック・スナイダーらしいダークで重厚な映画である。ヒーローは苦悩するし、バトルの運動エネルギーは目に留まらぬ迫力であるし、音響は重低音が凄まじい。

ヘンリー・カヴィルの扮するカル・エル(クラーク・ケント)は、端正なマスクと鍛えられたボディで、地球人ではないにも関わらず、まるでアメリカ代表のような存在感。ヒロインのロイス・レーンは、危険な現場でも怯むことなく職務を全うしようとする女性ジャーナリスト。これもいかにも現代アメリカのキャリアウーマン(死語)

ラッセル・クロウが演じる実の父親の信念の示し方とか、ケビン・コスナーダイアン・レインによる育ての親の愛情の注ぎ方とか、もう本当にアメリカ的な価値観そのもの。

しかし、いや、だからこそ、自分はこの映画の世界にはまるで入り込めなかった。

『ダークナイト』や『ウォッチメン』を彷彿とさせるようなシリアス展開にもかかわらず、主人公のカル・エルは、まるであちこちで奇跡を起こすイエスのようだ。彼も葛藤するにはする。祖国を取るのか、それとも地球を取るのかと。その葛藤を解消する場面は教会の中であり、神父への告白を通じてであり、背後にはキリストの絵が飾ってある。そして、カル・エルは、受難者として人類を救済する道を選ぶ。

人類を襲う危機は、アメリカの「メトロポリス」と、地球の裏側で同時に起こる。米国市民は力を合わせてアメリカを護れ、そして、スーパーマンは地球の裏側を叩く。これはアメリカを護るためでもあり、人類を救うためでもあるといわんばかりに。

これをイラク空爆脳、シリア空爆脳と言わずに何と呼ぼうか。

最終的に価値観の相いれない敵は殲滅するしかないという「ゼロかイチか」という思想にも困ったものだ。制作時期を考えると、決してシリア攻撃のプロパガンダ映画として作られたわけではないのだが、今のタイミングで観るとそうとしか観えない。アメリカ人はこの作品を見て国威発揚しているかもしれない(あるいは「もっと華々しく屈託なく戦え!」と言っているかもしれない)。だが、日本人にとっては、どうにも感情移入できないタイプの映画だと思う。最後の決め台詞を含めて。

あえて採点するながら作品としては40点くらいだが、最近のアメコミ映画のヒロインにしては珍しくエイミー・アダムスがかわいいので、その補正で1ノッチアップの45点くらいか。アメリカでの興行成績は悪くないようで(それはそうだろう)、続編の制作が決まっている。そして、続編ではバットマンと絡むことが決まっているようだが、全く良い予感がしない。「ダークナイト」で上がったバットマン株も新生スーパーマンに連れて大暴落しそうだ。