嘘が持つ魅力〜『木島日記』

嘘は、しばしば美しい。嘘は、しばしば人を酔わせる。嘘をつかれる人だけでなく、嘘をつく人もそれに酔う。残酷で痛みをもたらす現実から逃避するために。

つらい時代には、人々はオカルティズムに陶酔し、権力者もこれを黙認あるいは助長する。権力への不満を逸らせるために。

大塚英志森美夏による『木島日記』は、ムー大陸、神隠し、要石、永久機関、未確認飛行物体など、超常現象<オカルティズム>の見本市のようなモチーフを扱った作品だ。舞台は前作と同様、昭和初期。満州に傀儡国家を築き、そこを足がかりにして中国や東南アジアに帝国を拡大していく日本を背景に描いている。そして、ヒトラーやトロツキーも登場する。こうしたただでさえ胡散臭い時代を背景に、オカルトめいたさまざままモチーフが次々に登場していく。あるときは人民の信仰の対象であったり、あるときは軍の極秘研究の対象であったりする。いずれにしても、手を変え品を変え「嘘」が展開されていき、それが最終的に破綻を迎えるというストーリーだ。

木島日記(4) ニュータイプ100%コレクション

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前作の『北神伝綺』(2005-08-20 - Sharpのアンシャープ日記を参照)での柳田國男のように、『木島日記』には折口信夫が登場する。ただし、折口民俗学が全面に出てくることは少なく、中心的人物はあくまで古書店「八坂堂」を営んでいる仮面の男・木島平八郎である。彼が仮面の下に隠しているのも想像を絶する代物*1なら、彼の本業<仕分け屋>というのも一見謎めいた仕事だ。

物事をあるべき場所に仕分け、権力者が不自然な仕分けを行おうとするのを止めるその姿は、どこかいかがわしく見えることもあるが、俗世から超然としていて滅茶苦茶に格好いい。その姿は、古今東西の超常現象について並外れた博識を持っていながらも「この世には、不思議なことなどなにもないのだよ」と断ずる京極堂こと中禅寺秋彦と通じるものを感じさせる。

北神伝綺』との比較で、偽史としての物語のスケールが小さくなったという批判も聞かれる。が、本書のポジションは実は絶妙ではないかと思う。前書の長所でもあり短所でもある「史実との整合性」という軛から解き放たれ、民俗学と似非科学の融合が生み出す虚構の世界の中で、物語が自由に飛翔できるようになったからだ。

つまるところ、『木島日記』は、オカルティズムについてフェティッシュなまでに描写を重ねながらも、最終的にはそうしたものの存在を「仕分け屋」の木島がこの現実世界から排除することによって、物語を閉じる。そういう意味で、現実の世界は最終的に合理的なものに「保たれる」ことになる。読者は「仕分け」が行われる前の混沌とした空間で、瞬間的に向こう側の世界を垣間見ることができるだけだ*2

こうした「向こう側の世界」を見事に二次元に投影し、読むものをまどろみの中に連れて行く森美夏の絵は本書でこそ最高ではないかと感じる。このまま虚構の中にとどまりたいと感じさせる不思議な魅力を持っている。この虚構の世界は、誰にとっても居心地のいい場所というわけではない。というのは、少量の劇薬を含んでいるからだ。それは、同性愛であったり、フリーク=奇形であったり、狂人または<狂気>であったりする。

こうしたものを「異常」と捉える価値観の持ち主は、本作品に生理的な嫌悪を覚えるかもしれない。ありていに言えば、グロい、と。だが、「正常」という概念を胡散臭いと感じ、ある種の暴力性の匂いを嗅ぎ取るような人々にとっては、『木島日記』は、居心地の悪くない世界を与えてくれるだろう。『北神伝綺』との選択を迫られたとしたら、個人的には迷わずこちらを採りたい。

*1:仮面の下に キャスバル・レム・ダイクンが隠れているわけではない

*2:これは、京極堂が、不思議なことがないのを「この世には」と限定しているのと同じ意味を持っているだろう