誰もがノマド

少し前から「ノマド・ワーカー」という言葉が流行している。企業やオフィスに縛られず、絶え間なく動き続けて、ときにはスタバでデジタル機器などを使って仕事をこなす人を指しているらしい。

ジル・ドゥルーズはノマドについてこう言った。

ホメロス的な社会は、囲い地も、牧草地の所有も知らない。重要なのは、土地を家畜たちに配分することではなく、逆に、家畜たちそのものを、森や山腹といった境界のない空間のあちこちに配分すること、割りふることである。
 (ジル・ドゥルーズ『差異と反復』)

グローバル資本主義の世界は、ホメロス的な社会とは異なる。囲い地も牧草地の所有もあり、家畜には価格が付けられている。心の中で「俺はノマドだ!」と叫んだところで、カフェをオフィス代わりにするには、のどが渇いてなくても何かを「注文」する必要があるし、Wifiを使うには通信業者への「支払」をしなくてはならない。そして、労働者としてお金を稼ぐには、自分の生み出すものを「商品」として市場で交易し、対価としてお金を払ってくれる人と「契約」をしなくてはならない。

このような「ノマド・ワーカー」のどこにノマドの本質があるのだろう。ドゥルーズの著書から別の箇所を引用してみよう。

農村的共同体からなる領土はその中心部において、書記や神官や役人を率いた専制君主の官僚機械に支配され、固定化しているのは確かです。しかし周辺部では、共同体はもうひとつの種類の冒険に、今度はノマド的なもうひとつの種類のまとまりに、しかるべきノマド的な戦争機械に組み込まれていて、超コード化されるままでいる代わりに脱コード化するわけです。もろもろの集団全体が旅立ち、ノマド化するわけです。
(ジル・ドゥルーズ『ノマドの思考』)

「農村的共同体の固定化」と「ノマド的な戦争機械」が対置されている。実にわかりやすいイメージだ。これはグローバル資本主義そのものではないか。

俗っぽく言えば、絶え間なく差異を追求する現在の世界では、どの国も、どの企業も「定住」などできない。かつての名門企業も競争の中で栄枯盛衰を辿る。いまさら固有名詞をあげる必要もないほどに。それは単に民間企業の悲劇ではないかって。とんでもない。国家の財政破綻リスクは顕在化している。どの国の政府も明日を知れぬ状況となっている。大統領だろうが、首相だろうが、本質的にはノマド化を免れない。

公務員にせよ、会社員にせよ、個人事業主にせよ、次のことを強く意識せざるを得ない。すなわち、自らの得る金銭の対価として提供しているものが、グローバルな差異化の競争の中で、絶え間なく価値を減じられていることを。

いま、どのようなものならば価値があるのか―絶え間なく答を変えていくこの問いに答え続るためにさまよわずには生き残れない。この点で、現代の僕らは誰もがノマドなのだと思う。