奇兵隊を気取る菅内閣への強い違和感

菅直人首相の最初の記者会見を寛大な心をもって見始めたが、どうにも違和感をぬぐえなかった。原因は2点。まずは「最小不幸の社会」、もっといえば「政治の役割は最小不幸の社会を作ることにある」というところ。原文は以下。

私は政治の役割というのは国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか、最小不幸の社会を作ることにあると考えております。もちろん大きな幸福を求めることは重要でありますが、それは例えば恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあんまり政治が関与すべきではなくて、逆に貧困、あるいは戦争、そういったことをなくすることにこそ、政治が深く力を尽くすべきだとこのように考えているからであります。

ここで、彼が「不幸=貧困あるいは戦争」「幸福=恋愛あるいは趣味」という前提で話をしているのがおかしい。幸福の尺度にはいろいろなものがあろうが、「不幸=貧困・戦争」と定義するのであれば「幸福=裕福・平和」とするべきだろう。不幸だけが客観的に観測できるのに、幸福があたかも人間の内心次第で「政治が関与すべきではない」と断じるのは、論理的には不誠実だ。

本来は「最大幸福」と「最小不幸」はまったく別のコンセプトであり、前者が必然的に成長を追求する一方、後者は社会主義に行き着く可能性を孕む。日本の成長戦略を描くことを期待されている宰相が、いきなり「最小不幸こそ政治の役割」と発言するところに、彼の政治的理念の脆弱さを感じる。本当に分かっているのか、と。

そして、次に「奇兵隊内閣」。自らを高杉晋作になぞらえるかのような発言。原文は以下。

まあ私の趣味で言えば『奇兵隊内閣』とでも名付けたいと思います。私は今は坂本龍馬が非常に注目されていますが、長州生まれであります。高杉晋作という人は逃げるときも早い、攻めるときも早い。果断な行動をとって、まさに明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した人であります。

彼の趣味は、まあ個人の自由だとしよう。龍馬ブームの最中、長州出身者としては高杉晋作推しというのもよい。しかし、自らを討幕の志士のなぞらえるのはやめてほしい。菅はもはや与党の党首であり、総理大臣という立場だ。平成の維新は昨年の8月の衆議院選挙の際に終わっているのだ。いまの彼がなすべきはエスタブリッシュメントを倒すことではない。日本として何をなすべきかを決めることだ。たとえ趣味に合わなかろうと、大久保利通伊藤博文のように強いリーダーシップをもって国家を導くことを目指すべきだ(言うまでもなく、初代首相の伊藤は長州出身)。「富国強兵」のように明確なコンセプトを示して、限られた資源を有効に活用しなければ日本の将来は明るくならない(もちろんいまの日本で同じコンセプトを採用するというような話ではない)。この点で、いまだ幕末の夜明け前の志士気取りの総理大臣には不安が一杯だ。

まあ、経済界や官僚との関係も修復されつつあるから、出てくる政策は鳩山政権時代よりもマトモになる可能性はある、かな。