それは本当に――本当に深いのよ

「それは本当に――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」
 彼女はそう言うとツイードの上着のポケットに両手をつっこんだまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。
 「でもそれじゃ危くってしようがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」
 「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだもの」
(『ノルウェイの森村上春樹

ノルウェイの森』の冒頭に出てくる「野井戸」の話。「それは本当に――本当に深いのよ」と、2回の「本当に」の間に、直子の見ている闇の深さを感じる。これは彼女の不安の象徴であり、一種の幻覚なのかもしれないけれども。