狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものを思い起こさせるなら、「写真」は狂気となる。
(ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』)
東京ビルTOKIAで開催されているTOKYO PHOTO 2014に行ってきた。
エントランスには、LEXUS NX300h。近未来的なシェイプの中で強く自己主張するフロントなマスク。型番の末尾のhはハイブリッドの証。
さて、入場。印象に残ったフォトグラファーをざっと記録。
入ってすぐのところに蜷川実花。大伸ばしの作品2点は黄色を強調。
少し進む。
インベカヲリ。人間らしさ、女らしさの表現の一つのあり方だが、ザラッとしたトゲが刺さる感じ。
さらに奥へ。
オノデラユキ。銀残しで仕上げたようなモノクロは、瞬間と永遠を同時に感じさせる。
深瀬昌久。セーラー服、カラス、煙突からのスモッグ。ベルハーの世界観にも通じる退廃。
KINFOLK。淡い色合いとストレートな主題だが、構図や演出に過度な作為を感じさせ、本来KINFOLKが提唱しているシンプルな世界観から乖離している印象も。
レスリー・キーの撮った松岡モナ×プラダ。いつも強めにフラッシュを当てるレスリー・キーが、逆光に近い斜光でモデルの美しさを表現。シャドウで潰さない絶妙なトーン。
写真という表現の自由さを改めて認識した。ロラン・バルトは写真を狂気も分別も取ることができると言ったけれども、狂気を追求するか、あるいは分別を追求するか、足元がぐらぐらするような感覚を味わった。