世界の中の自分の居場所―『泣くな、はらちゃん』

自分のいるべき場所はどこなのか―麻生久美子演じる「越前さん」の悩みは、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジと同じだ。

「こちら側」の世界に居場所があるのか、それとも「向こう側」の世界に行くべきか。前話で現実世界から姿を消してマンガの中に入り込んだ越前さんは、結局、現実世界に戻ることを選んだ。世界と両想いになることはないけれども、世界に片想いで。

神はいるのか。神の前で自分の使命は何なのか。僕らは誰かの作った世界の中で役割を与えられた存在なのか。これらすべての質問に答を与えてくれるものを「宗教」と呼ぶ。

僕らは「はらちゃん」のように神と両想いになる確証を得ることはできない。「越前さん」のように、両想いと片想いの間を揺れ動く弱い存在なんだろう。

だが「求めるときに両想いになれる」ということが信じられれば、たとえ世界がつらくても、僕らは生きていける(人はそれを信仰と呼ぶ)。僕らは信仰があれば苦難を乗り越えられる。ずぶ濡れの中で転んでしまったときにも、傘を差し出してもらえたり、晴れ間が覗いたりする可能性があれば、僕らが生きていける(人はそれを希望を呼ぶ)。


『泣くな、はらちゃん』は、マンガの中のキャラクターが現実世界に現れるというファンタジー仕立てであったが、多くのファンタジーがそうであるように、信仰と希望を描いた作品であった。