過ぎ去っていった時間

写真を眺めるとき、僕らは過ぎ去っていった時間を想起する。そこで起こったことや、起こってほしかったこと、起こしてしまったことなどについて考える。

そうして過ぎ去っていった時間は、写真の中に封じ込められているが、僕らはそれを再び得ることはできない。ただ、思いをめぐらすことができるだけだ。それと全く同じ時間は、もうめぐっては来ない。その時間をやりなおして生きるわけにはいかない。

だからといって、そうした時間が「失われた時」であると考えるべきではない。僕らの誰も、時間を失うことはできない。誰にでも24時間は24時間であるし、60分は60分だ。僕らの中には、どんな時間も確実に堆積されている。ただ、その中身が違ってるだけで。

ときどき古い写真を見て切ない気持ちになる。なぜなんだろう。故人が写っている写真であれば、その人にもう会うことができないからだろうが、ときに存命の人の写真であっても、どうしたことか胸を締め付けられるような苦しさを味わうことがある。そんなとき、僕らはそこに失われた何かを見つけ、あるいは感じた結果、感傷的な気持ちになってしまうのだろう。

写真に封じ込められているのは、瞬間的な輝き、一瞬の光芒なのだ。それをまざまざと見せつけれられて、僕らは呆然とする。たとえ自分で撮った写真であっても、その雄弁さに立ち尽くす。いや、自分で撮った写真ほど、そのときの空気がよみがえってきて、いろいろな思いが胸を去来するのだろう。

写真は僕らにさまざまなことを思い出させる。写真は僕らに働きかけてくる。ときに言葉以上に。だから、写真を撮ることはやめられない。

(RICOH Caplio RXで撮影)