人はなぜ…

目の前で観察される事象が何かの結果であるならば、原因を探究したくなるのは知性にとって当然のことだろう。

また、その因果関係に経験則のようなものがあると推察されるならば、数多くのサンプルを観察してきた経験豊富な人の意見を聞くというのは、科学的な態度としてごく自然なことのように思われる。

この行為は必ずしも感傷や情緒を伴うとは限らない。たとえば「諸行無常」とか「花の色は移りにけりな」とか「人生は短く」とかいろいろな言い方があるけれど、そこにある種の哀しみと諦めを見出すのは文学の役割であって、その出番は最後でいい。その前に、まず行動科学的な意味での普遍的な法則への関心が来るのだろう。

ただ、同じ人間の中で、両者を完全に分離するのはときに難しい。科学的な発見を求める動機自体は非科学的なものだったりする。人はそれを「ロマン」と呼ぶのかもしれないけれど。月旅行への想いが宇宙工学を発達させ、不老不死への憧れがSTAP細胞を求めるのかもしれない。

だが「なぜ?」という疑問が、たとえば「涙」という情報とともに提示されると、探究心から発せられたという本質は遠景へと後退し、ひたすら情緒の側面にばかり焦点が当たる。しばしば「悩んでいる」という余計なノイズまで乗って。でも、たとえば 、アインシュタイン量子力学に対して「神はサイコロを振らない」と言ったと伝えられるけれども、彼が信仰について悩んでいたわけではないだろうに。

僕に言わせれば、たかが電子の位置と速度くらい、神様がサイコロを振ったっていいじゃないかと思う。「神は細部に宿る」という言葉が芸術の世界にあるけれども、電子のレベルにまで神が宿っていないといけないとは思わない。そして、分子がブラウン運動したっていいじゃないか。そんなことは気にし始めらきりがない。

広大な宇宙の中では、一人一人の人間なんて電子とか分子みたいなもの。その一挙手一投足に神の意志や普遍的な法則を見い出そうとする方が無理がある。ブラウン運動であり、ランダムウォークみたいなものだ。この僕が明日の21時にどこにいるかというのも、ある種の確率でしか語れないだろう。そしてその場所にいる理由なんて、偶然の産物かもしれない。

そこに何らかの法則を見い出して、逆算して望む結果を導くために、初期値や係数を変えたりしようとする試みにどこまで意味があるのは分からない。が、知性というもはそういうものを求めるし、それもまた人間であるということだと思う。